インタビュー

ヘッドハンティングされる人はどこが違う? 外資系企業で働く女性に学ぶ転職力

著者:Hint-Pot編集部・白石 あゆみ

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 日本国内で「オーガニック」をもっと身近なものにしたいと奮闘している、化粧品会社KOKOBUY(ココバイ)の企画部長・中田幸子さん。実は大学卒業後、現在とは真逆なイメージの鉄鋼や半導体を扱う会社に勤めてきた。これまで向かい風を受けるような場面でも、仕事を全うし、いつも笑顔があふれる中田さん。関係者は「彼女が誰かの悪口を言っているところを聞いたことがない。一度話すと忘れられなくなるような存在感のある人」と語る。そんな中田さんの動力とは? “リケジョ”の大学時代から現在に至るまでのキャリアにも迫る。

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春めいたピンク色のワンピースを素敵に着こなす中田幸子さん【写真:Hint-Pot編集部】
春めいたピンク色のワンピースを素敵に着こなす中田幸子さん【写真:Hint-Pot編集部】

自分の「好き」と「嫌い」を認識した大学4年間

 富山県で生まれ、幼少期は千葉県の西船橋で過ごしてきた中田さん。幼い頃から頑張り屋だった彼女だが、実は大学進学時、将来の夢は漠然としたものだったという。彼女が名古屋工業大学を選んだのは、化学が好きだったこと、たまたま親戚が名古屋に住んでいたこと、が主な理由だった。そして、受験に成功。晴れて工学部応用化学科に入学をした。

「今考えると、大学4年間は不思議な時間でした。好きだと思っていたものが好きじゃないと気が付いたり、今までそうでもなかったことが実は好きだと気が付いたり。当時、週に2,3回、一日がかりの実験の授業があったのですが、レポート作りや研究中に出た匂いが体に移ったりするのはすごく嫌で(笑)。実験は楽しいんですけど、私はあまり化学が好きじゃないんじゃないかと思うようになりました。それで私の通っていた学科では7割近くの人が大学院に進学するなか、このまま進んで研究者になるのは違うなと思ったんですよね。それに実験でほとんど人と話さない生活を続けていくなかで、人と話すことが本当は好きなことに気が付いたんです」

 就職活動を始める前に営業職を目指すことに決めたという。かねてから抱いていた海外への興味も膨らみ、いつか絶対に海外、特にアメリカで仕事ができるようになろうと決意する。そして、大学4年生の夏にアメリカへホームステイすることを思い立つ。

「6週間のホームステイに行ったんです。たった6週間ですが、せっかくアメリカに行くからにはと思い、日本人がほとんどいないテキサス州ヒューストンを選びました。初めてのアメリカは、自分なりには英語を勉強していったつもりでも、全然しゃべれませんでしたね。でも、私にとっては大学卒業前に海外に行けるラストチャンスだったので、滞在中はひと言も日本語を使わず、家庭教師の先生にきてもらったり、ホームステイ先の家族と積極的に話したり、思いつく限りのことをやれるだけやりました。そうすると面白いことに、滞在2週間くらいで英語の夢を見るようになってくるんですね。あっという間の1か月半でしたが、就職が決まっていた商社で、将来は海外で働きたいという意思がさらに強くなりました」

当時女性では珍しい総合職で入社 待ち受けていたものは…

 卒業後は、鉄鋼を主に扱う会社に総合職として就職。なんと同期入社、数十人のうち総合職の女性は中田さんひとりだけだったという。中田さんが就職をしたのは20年ほど前。女性は一般職採用が主流だったため、女性というだけで総合職で採用されるのはとても難しい時代だった。

 また、入社してから配属されたのは、それまで縁があまりなかった半導体の車載用途の営業。当時は、車ビジネスの場は完全に男性社会。女性の営業が珍しいこともあり「女が来たのか」とか「これだから女は」といった言葉を浴びせられることもあったという。

「営業の電話をした後に、悔しくてボロボロ泣いたこともありました。仕事をしながら、日本の狭さや堅苦しさを感じる機会が多くて。でも、絶対海外で働こうと決意していたので、入社してからもずっと英語を勉強し続けました。社内で開かれる英語の講座は週に1回。週末は英会話教室で学びました。とにかく絶対海外に行くんだと信じて疑わなかったです」

 入社から5年目。彼女はアメリカ行きの辞令を受け取る。会社にとって未開の地・アメリカで半導体の営業を行うこととなったのだが、取引先は全くのゼロ。アメリカでのつてなどもなく、自分で一から契約を取ってこないと、仕事が全くない状態からのスタートだった。しかし、そこでめげないのが中田さん。何もわからないならとにかく片っ端から電話をして、そこで知らないことは色々聞いてしまえばいい、と思うことにした。この日のためにずっと勉強してきたとはいえ、まだまだつたない英語でがむしゃらに電話をかけ続けたのだ。そして、そうこうしているうちに、いつの間にかそれなりに英語も仕事もできるようになっていたという。