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現地葬儀中継で語られたフィリップ殿下の素顔 妻と家族を優先した人生 納得と屈託
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フィリップ殿下の数奇な人生
伝え聞く話では、非常にマッチョな人だったという。行動的でスポーツ万能で、思ったことは率直に口にする。そして若かりし頃は何より海軍生活を愛した。
1921年にギリシャ王子の子として生まれたが、クーデターにより仏パリでの亡命生活を経て渡英。英スコットランドの寄宿学校「ゴードンストン」で鍛えられた後は英国海軍兵学校を優秀な成績で卒業し、士官候補生として海軍に入隊した。この頃18歳だった殿下は、金髪碧眼にして長身の美丈夫。13歳だったエリザベス女王(当時は王女)が“一目惚れした”という逸話は有名だ。
そして2人は女王の初恋を成就する形で、出会いから8年後となる1947年に結婚。翌1948年11月14日に長男のチャールズ皇太子が、1950年8月15日には長女のアン王女が生まれ、1男1女を授かり幸せいっぱいの若夫婦となった。
また軍歴も順調で1952年には海軍中佐に昇進し、将来の提督が嘱望されていた。だが、同年2月に妻の父であるジョージ6世が56歳の若さで死去。その父の跡を継ぎ、同年同月には25歳の妻が女王として即位した。
2人にとってはまさに青天の霹靂と言える出来事だったに違いない。殿下は王配となったために、30歳の若さで海軍を退役。何よりも誇りとしていた軍歴に終止符を打った。そして妻との関係性が大きく変化し、2人は苦難の時代を迎える。
女王の配偶者として苦悩した日々
殿下は後に、唐突にめぐってきた王配というポジションについて、試行錯誤しながら自分で考えなければなかったとし、「前例がない役割でしたからね。誰かに『私に何を期待しているのですか』と聞いても、みんな無表情でした。彼らはアイデアがなく、誰も深く考えていませんでした」と話している。
1952年の段階で愛する海軍職を辞し、非常に行動的で男性的な個性の持ち主だった殿下にめぐってきた“女王に仕える男性の配偶者”という仕事は、きっと困難を極めたに違いない。
ネットフリックスがオリジナル制作する、女王の半生を描いた人気ドラマ「ザ・クラウン」には、殿下の苦悩を描くシーンがある。即位の翌年に執り行われる戴冠式で、式の委員長に任命された殿下はテレビ中継を決め、女王にひざまずくことを拒否した。
この背後には、ギリシャ王子の子として見た「国民を無視した王家が転覆させられた」件もあるが、女王とは口論になる。そこで女王が中継を認める代わりに式でひざまずくよう求めたところ、殿下は「君は女王か? 妻か?」と怒声を浴びせた。もちろん、強調されたフィクションであることは承知しているが印象的だった。
またチャールズ皇太子とアン王女に、殿下が自分の苗字である「マウントバッテン」を授けるよう熱望したエピソードも登場する。女王の母エリザベス王妃やウィンストン・チャーチル首相に拒否され、最終的には1960年、英王室の姓である「ウィンザー」を保持した「マウントバッテン=ウィンザー」となった。これは史実であり、男性優位社会であった当時の世相からも、殿下が予期せぬ若さで強いられることになった王配の立場に、屈辱を感じたことは容易に想像できる。
アン王女が誕生してから次男のアンドリュー王子が生まれる1960年2月19日まで、約10年の空白があるが、それも殿下が女王となった妻との関係性に苦しんだことが関連しているという見方は強い。
実際、この10年の間に殿下は紳士クラブに入り浸りの生活で、前出の「ザ・クラウン」にはこの時期、30代の男盛りだった王配の“バレリーナとの不倫”も示唆するシーンもある。
あれだけの美男ロイヤルなら、出会った女性が強烈な磁力に引き寄せられるように、魅了されただろう。プレイボーイの噂もあった。
これは余談になるが、女王がアンドリュー王子を“最愛の子ども”とするのは、殿下が王配の役割を受け入れ、2人が和解した“愛の証”であることがその理由だと言われる。
「失言王」とも言われた殿下の真意を考察
また、殿下の死去後には改めてその失言、暴言集がさまざまなメディアで紹介されている。そんな人を驚かすような発言の数々も、時々“王配”という陰に隠れる役割で溜まった欲求不満を表す手段だったのかも知れないと私は考える。
“もちろん女王が最も重要だけど、私もここにいるんだよ”
世間を騒がせた失言の裏には、ざっくばらんで男性的、しかも美男で頭脳明晰だが、ややせっかちなところもあった殿下の、そんなつぶやきが潜んでいるような気持ちがする。
何はともあれ、世界で最も注目される王室の女王との73年余りの結婚を全うしてこの世から旅立った王配の名が、英国民の心から消え去ることは決してない。
(イギリス・森昌利/Masatoshi Mori)