食
「いただきます」を誰に伝えるのか分かった…母娘が“鶏を絞めてさばく”体験 心境の変化は
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米ロサンゼルスの片田舎から暮らしの情報発信を続ける小田島勢子さん。オンラインコミュニティやワークショップで、自身の実体験を通じて得た“食”などのアイデアを共有しています。そんな勢子さんが綴る連載エッセイ、今回のテーマは「食育」です。先日、娘さんと一緒に体験した、鶏を絞めてさばくという作業。現代において貴重なこの経験は大切な学びの場となっただけでなく、意識の変化にもつながったようです。
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普段見えていない「命を絶つ」現場 娘たちと鶏を絞めることに
未来ある子どもたちの健やかな成長に欠かせない「食育」。現代では大切な教育の一環になっていますが、これは本来、親や親戚、地域との関わりの中で、人々が自然と伝統的に育んできたものだと思います。
食育だけでなく食べる行為そのものにおいて、答えのない難しい話題もあるでしょう。それは、他の生き物の命をいただくということ。人それぞれ価値観や思いに違いがあるはずです。
私自身は現在、肉を食べる生活をしていますが、毎日の食事として植物や虫、菌など、命が宿るすべてのものをいただくことに対する感謝の大きさに変わりはありません。
ただ親として、また食を伝える立場としてとても大切でありながら、まだ経験したことのない一つのテーマがありました。それは、パックになって売られている肉の背景を本当の意味で知ること。
肉食をしているならば、その動物の“命を絶つ”工程に必ず誰かが携わっています。そうだと頭で分かっていても、農業や釣りと同じようにその工程に自らが関わり、その上で食せるのかどうかは、私の中で答えを出せていませんでした。
それを自ら経験した時に心はどう変化するのか――。また母として、子どもとその時を一緒に過ごすことができればと、ほんの少しの望みを持っていました。
そして先日、その機会がやってきました。娘の同級生のつながりで親しくしている友人のギルバートとりかの農場で雄鶏10羽を絞めることになり、手伝ってほしいと声をかけられたのです。
私はこのことを娘たちに相談しました。すると、「お友達(次女の同級生)がお手伝いするなら、私も行きたい」と返事が。そうして私たち親子は鶏の命を自らの手でいただく体験をすることになりました。