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人気観光スポット「浅草」の地名はどこから? 源頼朝も回避したという難所との関係は
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教えてくれた人:日本地名研究所
下町風情が漂う東京の人気観光スポット・浅草。新型コロナウイルスの影響で施行されていた外国人の入国制限が緩和され、少しずつ海外からの観光客も戻ってきました。40年以上も地名研究を続けている日本地名研究所(神奈川県川崎市)の協力のもと、地名の由来を深掘りする「Hint-Pot 地名探検隊」は今回、浅草のルーツについて調査。今話題の源頼朝も苦しめられたという昔の浅草周辺は、一体どのような状況だったのでしょう。
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元から高い場所にあった「浅草」は早くから発展
東京都台東区に位置する浅草は浅草寺(せんそうじ)を中心に、その山門にあたる雷門やそこから続く仲見世など、江戸時代の雰囲気が今も残る地域です。また、東京スカイツリーとの間にはおしゃれなレストランやライフスタイルショップが並ぶ商業施設「東京ミズマチ」も誕生し、多くの観光客が注目しています。
そんな浅草ですが、なぜ「アサクサ」と呼ばれるようになったのでしょうか。地名の由来には諸説ありますが、単純に考えて「浅い草」が茂っていた地域だったと想像できます。となると、浅草の反語ともいえる「フカクサ」という草が深かった地域もあったと考えられるでしょう。ではその「フカクサ」はどこにあったのか。これを考える上で重要なのは、「浅草」が命名された当時の地形です。
浅草寺のある場所は周辺より一段高くなっており、早くから人々が暮らしていたと思われます。地形的に最も高い場所にあったのが浅草寺の裏手にある乳待山聖天宮付近。一方、現在の上野や下谷周辺は谷中田圃(やなかたんぼ)と呼ばれ、一帯は丈の高い草が生い茂っていました。この一角にあったのが通称「浅草田圃」と呼ばれた新吉原。現在の日本橋人形町付近にあった吉原が火災にあって移転してきた地域です。
鎌倉時代の紀行文学「問はず語り」には、主人公が観音堂を訪れる場面で「馬上の男が見えぬほどの丈の高い草を押し分けて道をたどった」と記されています。また、平安時代中期の回想録「更科日記」にも同様の記述があるほど、「アサクサ」の周辺が「フカクサ」であったことが分かります。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場する源頼朝もこの「フカクサ」に苦労したようです。頼朝は挙兵したものの石橋山の合戦で平家に敗れて、小舟で安房国(現在の千葉県南部)に脱出。そこで陣形を立て直して再び鎌倉を目指しました。
その時、下総国(現在の千葉県北部)から武蔵国(同東京都と埼玉県)に入るルートとして海岸線に沿って西に向かったのですが、大軍を率いてはとても進めない場所が「フカクサ」だったのです。そこで、御家人だった千葉常胤(つねたね)の進言を受けて、浅草より少し上流の石浜を通って鎌倉に至り、幕府を開くことができました。
交通の難所でもあった「フカクサ」とは対照的に、「アサクサ」の浅草寺一帯はなぜ現在のように発展を遂げたのでしょう。
浅草寺縁起によると、推古天皇36年(628年)に檜前浜成(ひのくまはまなり)と竹成(たけなり)の兄弟が、宮戸川(現在の隅田川)で行った漁で観世音菩薩の小像が網にかかり感得。土師直中知(はじのあたいなかとも)とともに小堂を建ててまつったのが浅草寺のはじまりといわれています。
大化元年(645年)には、勝海上人が堂宇を建立しこの仏を秘仏として奉仕。のちに観音霊場として知られるようになったそうです。奈良・平安期にはすでにこの辺りに集落が形成されていたことも分かります。さらに江戸時代には幕府から500石の朱印地を賜り、祈祷寺として隆盛。元禄期以降は寛永寺の支配下になり、江戸庶民から信心されました。
今や東京の観光名所としては外せない人気スポットの浅草。訪れた際は歴史に思いを馳せてみるのもいいかもしれません。
(Hint-Pot編集部)