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江戸時代の下級武士が由来に 駅名だけ残った地名「御徒町」の変遷
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教えてくれた人:日本地名研究所
古くから使われ、多くの人になじみがあったにもかかわらず、現在はさまざまな理由で消滅してしまった地名があります。東京を走るJR山手線・京浜東北線の駅名にもある「御徒町」もその一つです。今回の「Hint-Pot 地名探検隊」はその地名の由来に注目。一体どんな歴史的背景があるのでしょう。40年以上も地名研究を続けている日本地名研究所(神奈川県川崎市)に協力していただき、深掘りします。
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昭和30年代の住居表示法で「御徒町」の地名は消滅
東京都台東区の南西部に位置する“旧御徒町地域”。JR「上野」駅と「御徒町」駅の間にあるアメヤ横丁(アメ横)は、さまざまな老舗商店や飲食店が立ち並ぶエリアとして人気です。また、「御徒町」駅周辺は再開発も進み、大手のシネマコンプレックスなどもオープン。古き良き時代と現代が融合することで、新たな魅力を発信しています。
とはいえ「御徒町」の地名は、住居表示法が制定された昭和37年の2年後、昭和39年(1964年)に消滅してしまいました。現在残っているのはJR「御徒町」以外に、都営地下鉄の「上野御徒町」駅や「新御徒町」駅、東京メトロ日比谷線の「仲御徒町」駅といった駅名や学校名だけ。明治5年に下谷御徒町1~3丁目、下谷中御徒町1~4丁目と呼ばれた地域は現在、台東1~4丁目、上野3~6丁目などに名称が変わっています。
そもそも「御徒」とは、武家制度で最下位の身分にあたる役職のこと。騎乗を許されていないため徒歩で行列の先導を務めた侍といわれ、徒侍(かちざむらい)や徒組(かちぐみ)とも呼ばれる他、「徒士(かち)」とも書かれます。
こうした下級武士の名称が地名になった理由は何だったのでしょう。それらの組織は御徒組と呼ばれ、組屋敷が下谷(現在の台東区)と牛込(同新宿区)にありました。明治になって付けられた「御徒町」は、下谷の組屋敷が置かれた場所を表した地名です。
徒組は非常時に際して江戸城に駆け付ける役割だったため、組屋敷は江戸城近くに配置されていました。全部で20組あり、各組の構成は徒頭1人、組頭2人、徒士番28人。本丸に15組、西丸に5組が編成され、総勢600人が交代制で勤めていました。
一方、牛込御徒組屋敷は現在の新宿区北町、中町、南町にありました。江戸時代には牛込北御徒町、牛込中御徒町、牛込南御徒町と呼ばれていましたが、明治5年に牛込北町、牛込中町、牛込南町と名称変更。「御徒町」であったことはすっかり忘れられています。
この牛込御徒町は、江戸の幕臣として活躍した大田南畝(おおたなんぽ)を輩出しています。狂歌師としても有名になった大田も、若い頃は江戸城詰の徒組として従事。のちに蜀山人(しょくさんじん)、四方赤良(よものあから)などとも呼ばれ、幕府の昌平坂学問所で首席を修めました。そんな逸材のルーツとなった「御徒町」の地名も今や消滅。天国でさぞ残念がっているのではないでしょうか。
(Hint-Pot編集部)