カルチャー
朝ドラヒロインからさらに飛躍する清原果耶 『線は、僕を描く』で見せる“縦横無尽”さ
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2015年にNHK連続テレビ小説(朝ドラ)「あさが来た」の女中・ふゆ役で俳優デビューを果たした清原果耶さん。以後も順調にキャリアを重ね、朝ドラの“常連”にも。17歳になった19年には「なつぞら」で2度目の出演、21年には「おかえりモネ」でヒロインに抜擢されました。朝の顔としておなじみになる一方、数々の映画やドラマに出演。清々しい雰囲気と確かな存在感で、誰もが認める若手実力派です。そんな清原さんの新たなステージが見えるという作品が、砥上裕將さんの小説(講談社文庫刊)を原作にした『線は、僕を描く』。経験値によって培われた柔軟さがさらなる成長を感じさせてくれるようです。映画ジャーナリストの関口裕子さんに解説していただきました。
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「人は偶然の出会いによって生かされている」と感じること
世界は意外と狭い。先日こんな出会いがあった。友人にアフガニスタンのドライフルーツを手土産で渡すと、「なぜ!?」と尋常じゃない驚きの声を上げ、同じ会社が輸入するナッツの袋を出してきた。
同じ輸入会社の商品をお互い購入していたということなのだが、そもそもアフガニスタンの前政権崩壊後、生活に困窮する人々を支えるためにスタートした会社。日本市場に万遍なく出回るような商売はしていない。それに同様の目的で設立された会社は他にもある。
私は同企業を日本側でサポートする人から、友人はその会社の代表に取材したことから購入に至った。それぞれが偶然にもアクセスした同じ会社のドライフルーツとナッツは、別のルートを経て、1つの皿に盛られた。「こんなこともあるんだね」。私たちは“出会い”と“世界の狭さ”についての話題でひとしきり盛り上がった。
そんな風に「人は偶然の出会いによって生かされている」と感じることがたまにある。砥上裕將原作、小泉徳宏監督、横浜流星主演の『線は、僕を描く』もそう。事故で家族を失った青年が、水墨画との出会いによって、生きるための新しい地平を掴む物語だ。
水墨画の世界で展開する若き男女の出会いと変化
事故で家族を失って以来、時を止めてしまった大学生・霜介(横浜流星)は、絵画展の設営アルバイトで水墨画の巨匠・篠田湖山(三浦友和)に出会い、弟子になるよう誘われる。弟子を取らないことで知られる湖山は、霜介に何を見い出したのか? 霜介は戸惑いながらも白と黒の水墨画の世界に魅了され、変化していく。
一方、湖山の孫で次世代のトップと評される千瑛(清原果耶)は、彼とは逆に水墨画に描きたいものを見い出せなくなっていた。まるでモーツァルトに嫉妬するサリエリのように、霜介へのライバル心に駆られていく千瑛。
霜介が湖山との出会いによって新たなるフィールドへと導かれるのに対して、千瑛は生きるべきフィールドを自分で切り開かざるを得ない。千瑛はすでに霜介の持っていないフィールドにいる。立っている次元が異なるからなのだが、余裕を失っている千瑛には別の意味を持つように思えてしまう。
例えば、自分の才能が見限られたのではないかという不安や、男女差に対する期待値ゆえではないかという疑念。千瑛が直面しているのは、自分に確固たる自信を持てずにいることに他ならない。
だが、それを獲得する自分との戦いに、他人は手を貸すことができない。それゆえ孤独だ。祖父の湖山然り“そこ”を目指す誰もがぶつかった壁なのだが、自分で気づいてこそのもの。だから誰もこうすればいいと導いてはくれない。