カルチャー
夫の不倫相手と妻を描く『あちらにいる鬼』 観る者が震撼する広末涼子の“深み”とは
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有名人の不倫に関するニュースが相次ぐと、世間には否定的な意見があふれます。その一方で、不倫関係を描いたドラマや映画などの数は多いもの。「愛すること」と「裏切ること」が入り乱れる状況は、人の本質をさらけ出すものでもあるのでしょう。小説家の井上光晴さんとその妻、そして瀬戸内寂聴さんをモデルにした同名小説の映画化『あちらにいる鬼』も、そんな作品の一つ。原作者は井上さんの娘である井上荒野さんです。ここで描かれているのは“夫の不倫相手と妻”の関係。映画ジャーナリストの関口裕子さんは、妻役を演じた広末涼子さんには観る者を震撼させる“深み”があると語ります。本作のテーマと合わせて解説していただきました。
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夫の不倫相手と妻の“特別な関係” 実話を基にした物語
餃子とは何と食欲をそそり、生命力を喚起させる食べ物であることか!
瀬尾まいこ著の小説「そして、バトンは渡された」(文春文庫刊)に登場する餃子は、友人とギクシャクして落ち込む女子高生の主人公・優子のために、血のつながらない父親が作る。義父の「優子ちゃんが元気になるまで餃子を食べまくる」という励ましとともに、餃子を口に運ぶ優子が生命力をよみがえらせていく描写が印象的だった。
ゆざきさかおみ著のコミック「作りたい女と食べたい女」(KADOKAWA/AMW刊)に登場する餃子も、とにかくおいしそうだ。料理を作ることが趣味の野本さんが、マンションの隣室に住む食欲旺盛な春日さんを自宅に誘い、一緒に餃子を包んで食べる。まったく共通点のない2人だったが、この日以来グッと距離が縮まる。そこには餃子のおいしさもさることながら、“一緒に包む”という行為が貢献しているのだと思う。
そんなことを思ったのは、寺島しのぶ、豊川悦司主演、廣木隆一監督の『あちらにいる鬼』を観たからだ。原作は、小説家の井上光晴とその妻、そして2021年11月に亡くなられた瀬戸内寂聴をモデルに、光晴の娘である井上荒野が書いた「あちらにいる鬼」(朝日文庫刊)。
小説では、逃れようもなく交じり合った小説家・白木篤郎(豊川)と7年にわたる不倫関係の末、出家した“長内みはる”こと寂光(寺島)と白木の妻・笙子(広末涼子)の、死が分かつまで続いた“特別な関係”が描かれる。
この小説で描かれるのは、男女の性愛がもたらす修羅ではない。作者をこの作品の執筆に追い立てたのは、たぶん愛という根源的な存在についてや、書くこととは何かという小説家の業のようなものへの追究なのだと思う。
籠絡されていく女たち 常に自分を抑制し続ける妻
『あちらにいる鬼』にも餃子が登場する。出家した寂光が篤郎に招かれ、新築した白木邸を訪ねるシーンだ。篤郎は妻の作った餃子を、長崎にある餃子の名店から笙子がレシピを分けてもらったもので、「旨いですよ」と寂光に自慢する。
新築の家に寂光を招く行為にしても、篤郎のやり方は、新しく手に入れたものを自慢したくて仕方ない子どものよう。相手がどう思おうが、いやむしろ相手が嫉妬することで自分への興味を絶やさずにいることを願っているかのようだ。
ここで描かれる白木篤郎という男は、相手の神経を逆撫でることに長けている。それだけでなく、それによって感情が揺らいだ人を“その揺らぎこそがあなたなのだ”と受け入れてみせ、自分への興味を保ち続けさせる術に長けているのだと感じた。
多くの女性に、たぶん無意識にそれを実行したのだろう。その術中にはまり、身動きできなくなった女性が、小説には映画以上に多く、時に泣き、わめく存在として登場する。
もちろんみはるや笙子が嫉妬して感情を高ぶらせるシーンもある。みはるはそうした感情の行き着いた末の結論として出家するが、笙子は感情の高ぶらせまいと自分を常に抑制している。映画の笙子は特にそう描かれる。
笙子がリミッターを外すのはたった一度。第二子を出産する夜、「私はこれからずっとあのひとと暮らしていくとよ。私はどがんすればよかと」と本音を吐露する。心を許していたと思われる唯一の人、一緒に住んでいた亡き篤郎の育ての親・サカばあちゃん(丘みつ子)の幻影を観たからだ。
なぜ笙子は夫に嘘をつかれ、裏切られ続けても、怒りを爆発させることなく、添い遂げ、最終的には同じ墓に入る決断をしたのか?