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“さらけ出すこと”を厭わない寺島しのぶ 自身の手で切り開いてきた俳優人生は新章へ

著者:関口 裕子

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『キネマの神様』では主人公ゴウ(沢田研二)の娘・歩を演じた寺島しのぶ【(c)2021「キネマの神様」製作委員会】
『キネマの神様』では主人公ゴウ(沢田研二)の娘・歩を演じた寺島しのぶ【(c)2021「キネマの神様」製作委員会】

 歌舞伎役者の七代目尾上菊五郎さんと女優の富司純子さんの長女として生まれた寺島しのぶさん。その血筋から“サラブレッド”と称されますが、少女時代は「歌舞伎役者になりたい」という叶わぬ夢を抱いていたそうです。以降は俳優としての道を自分自身で切り開き、48歳の現在は圧倒的な存在感と演技力で高い評価を得ています。今年も初の“山田組”作品『キネマの神様』やSF的設定の『Arc アーク』、そしてスタジオジブリ最新作『アーヤと魔女』と、新たなステージを感じさせる作品が続く寺島さん。その魅力を映画ジャーナリストの関口裕子さんに解説していただきました。

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母・富司純子の大反対を押し切って出演した作品で賞を総なめ

 我の強い主張、さまざまなクセ、理想と反する行いなどを、ずばりと指摘されることがたまにある。思わず過剰反応してしまいそうなほど恥ずかしい。知られたくない自分をさらけ出すことには、とてつもない恥ずかしさがつきまとう。

“演じる”という仕事の本質はまさにこれ。“役と俳優は別物”であることは間違いないが、その人を通して出てくる演技には、演じ手自身がにじみ出る。俳優という職業は、恩返しをする鶴のように“自我”を物語に織り込んで唯一無二のものを作る仕事。自分をさらけ出すことに抵抗を感じる人には、精神的負担の重い仕事でもある。

 名優の多くは、素の自分をさらけ出すことを厭わないわけだが、映画俳優デビュー早々からその風格を感じさせる人がいた。寺島しのぶだ。

 車谷長吉の同名小説(文藝春秋刊)を映画化した『赤目四十八瀧心中未遂』(2003・荒戸源次郎監督)で、寺島は背中一面に迦陵頻伽(かりょうびんが)の刺青を入れた寡黙な女性・綾を演じた。世捨て人のように兵庫・尼崎までたどり着いた青年・生島(大西信満)が、日々やきとりの串を打つ狭いアパートで綾と関係を持つシーンでは、薄闇を弾き返す彼女の白い肌の生命力が鮮烈な記憶を残す。

 観る者誰しもが「寺島しのぶがいなければ成立しない」と感じるこの作品では、日本アカデミー賞最優秀主演女優賞他を総なめにした。だが、出演には母親の大反対があった。彼女の母親とは、1960年~70年代の東映の大スターであり、今年4月に主演作『椿の庭』(2021)が公開された富司純子(藤純子)。富司は“嫁入り前”の娘がヌードになることに対して否定的で、寺島の顔を見るたびに反対した。

 でも「勘当する」と言っても寺島の覚悟は変わらなかったのだそう。「主人に相談したら、女優なんだから仕方ないだろう。本人が責任を持てるならいいのではと言われた」と述懐している。富司のいう“主人”とは、歌舞伎役者で人間国宝である七代目尾上菊五郎だ。梨園に嫁いだ富司は一女一男を授かり、寺島の弟・和康は五代目尾上菊之助として活躍している。

“歌舞伎の家に生まれた女性”という立場がもたらした俳優哲学

 寺島が“俳優”という職業に持つ哲学には、歌舞伎の家に生まれた女性であることも影響しているように思う。以前、寺島が自身を大特集した番組で「歌舞伎役者になりたかった」と話していたことを思い出す。

 歌舞伎の世界では特別なイベントごとを除き、女性は舞台に立つことができない。昔ながらの在り方としては、女性は事務方として歌舞伎役者を支えることが主たる仕事だ。もちろん事務方を極めるにも才能が必要。だが、演じる方に才能があった場合、それを活かすことを“期待されない”悲しさは、自分の存在意義を改めて問うことにもなっただろう。

 そうやって寺島しのぶが導き出した答えが、映画の俳優として生きる道だったのではないか。そして、やるからにはその作品に必要不可欠な存在となると。

『赤目四十八瀧心中未遂』への起用は、原作を読んだ寺島が車谷に手紙を書いたことがきっかけになった。「自分の生きたいように周りがさせてくれないことにもがく綾。その切なさに原作を読んで泣いた」のだと寺島は語っている。「赤目四十八瀧心中未遂」は、まさに寺島が処理しかねていた感情を描く小説だったのかもしれない。