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仕事・人生

中山秀征さん「オーディションに呼ばれたら受かると思っていた」 念願の芸能界入りを果たすまで

公開日:  /  更新日:

著者:Miki D'Angelo Yamashita

芸能生活40周年を迎えた中山秀征さん【写真:矢口亨】
芸能生活40周年を迎えた中山秀征さん【写真:矢口亨】

 2025年で芸能生活40周年を迎えた、タレントの中山秀征さん。5月に発売された新刊「気くばりのススメ 人間関係の達人たちから学んだ小さな習慣」(すばる舎刊)は、3万部を超えるヒットとなっています。芸能界での経験から身についたこともたくさんあるそうですが、その「気配り」の原点は、子どもの頃からの環境にあるようです。全3回のインタビューの1回目は、コミュニケーションの達人である中山さんに、そのきっかけになった幼少時代から芸能界入りまでを振り返っていただきました。

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周囲を楽しませることに喜びを感じた幼少時代

 子どもの頃から、日常的に人と接する機会が多かったという中山さん。実家は工場を経営し、いつも従業員の大人たちが30人ほどいた環境で育ったそうです。思い返せば、最初の気配りは、まだその言葉の意味すら知らない5歳のときでした。

「3時のお茶の時間に、おばちゃんたちを前に歌っていたんです。今日は何を歌おうか、どうやったらウケるかとか。自分が好きな歌よりも、おばちゃんたちに楽しんでもらえる歌を探す毎日でした。

 たとえば、当時流行っていた『殿さまキングス』の『なみだの操』。『あなたのために守り通した女の操』なんて、5歳で歌えば、歌詞の意味はわからないけど、ウケていることはわかるじゃないですか。そうすると、『ヒデちゃん、嫌だよ』と言われながら握手して回ったり。こんなに笑ってくれるんだと、幼心にうれしさでいっぱいでした」

「なんでもいいからテレビに出たい」

 芸能界に入りたいと考えたのも、人を楽しませたいという思いがきっかけ。人が楽しんでくれるのを認識し出した頃から、とにかく「なんでもいいからテレビに出たい」と憧れたそうです。

「当時はテレビ全盛時代。ブラウン管が光り輝いていました。御三家、新御三家といったアイドルが出てくる。それを見ては真似して、学校の行事で披露していました。歌が好きだったんですね。1970年代は音楽がテレビ文化を担っていました。バラエティというジャンルはまだなく、歌番組の中にはコントがあり、コント番組には歌がある。そういう認識だったんです」

 クラスの女子から「劇団に入らないとテレビには出られない」と教えてもらい、14歳のときに東京の児童劇団(NAC)を受験し合格。3か月間のレッスンを受けて、成績が良ければオーディションを受けさせるという言葉に「3か月あれば、ほかのオーディションを受けてドラマに出ることができる」と自信満々でいたそうです。実際、3か月後にあったオーディションを受け、「火曜サスペンス劇場」に出演が決まりました。

「オーディションを受けたら受かる、合格すればテレビに出られる。青写真はこれで決まったというスタートだったんです。それが続くと思ったら、大間違いだったんですよ」

 群馬からレッスンに通っていたものの、オーディションは「今日来られないか」と急に声がかかる場合も多く、地方にいては受けられる機会が少なかったそうです。そんななか、しだいにある思いが芽生えてきます。それは「東京の高校に進学すること」でした。