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動かせるのは指先だけ…難病と闘う男性が決意の一人暮らし 「やりたいならやってみろ」父の言葉が背中押す
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人工呼吸器なしでは生きられず、自由に動かせるのは右手の指先だけ。寝たきりの重度障がい者でありながら、昨年末、遠く親元を離れた大阪で一人暮らしを始めた男性がいます。脊髄性筋萎縮症という難病を抱えながら、SNSで障がい者の赤裸々な日常を発信するウッディさんに、親元からの自立を決断するまでの経緯を聞きました。(取材・文=佐藤佑輔)
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1歳を過ぎたころに全身の筋力低下と筋萎縮が進む進行性の難病、脊髄性筋萎縮症と診断
脊髄性筋萎縮症は、脊髄の運動神経細胞が徐々に消失していくことで、全身の筋力低下と筋萎縮が進む進行性の難病です。発症時期や進行の程度によって、最も重症のI型から比較的症状の軽いIV型に分類されており、ウッディさんの場合は「限りなくI型に近いII型」。1歳を過ぎたころに病気が発覚し、自分の力で歩くことはできず、病気が進行した現在は寝たきりの生活を送っています。
「症状から逆算して『生後10ヶ月頃』という推測は出ていますが、正確な発症時期は分かりません。ハイハイやつかまり立ちはできるけれど、なかなか歩けるようにならないということで、心配に思った両親が病院に連れて行ったところ病気が判明したそうです。自分の中では生まれつきというか、物心ついたときには障がいがあった。子どものときには病気について深く考えたことはありませんでしたが、周りのみんなと同じことができないもどかしさはありました」
5歳のときに気管を切開。小学校入学後からは人工呼吸器なしでは生活できない日々が始まりました。小学校低学年までは普通学級に通いながらも、3年生のときに入院を機に病院近くの養護学校に転校。中学では両親の離婚を経験し、一人っ子だったウッディさんは父親のもとで育てられることになりました。
養護学校の高等部を卒業後は、障がい者雇用で都内の企業に就職。地元・愛媛にいながら、テレワークでIT系の事務作業に携わっていました。しかし、20歳を過ぎるころには右手の指先だけしか動かせないほどに病状が進行。体力的・精神的な限界を感じ、2年ほどで退職を余儀なくされました。自分の人生や将来について、真剣に考えるようになったのもその頃だといいます。
「愛媛の田舎で父と二人暮らししながら、ヘルパーさんに手伝いに来てもらう毎日。今は良くても、いずれ父が年老いたらどうなるのか。家にこもりっきりの日々の中で、何よりも人とのつながりが欲しくてSNSを始めました。ネットで知り合った人の中には、自分と同じような障がいを抱えていても、一人暮らしをしていたり、自分の人生を楽しんでいる人がたくさんいた。父に相談し、『やりたいならやってみろ』という言葉にも背中を押されて、親がまだ元気なうちに、親元を離れて自立した生活環境を築く覚悟を決めたんです」
24歳のときにまず実家の近くで一人暮らしを始め、約2年半もの準備期間を経て、昨年末、遠く親元を離れた大阪のマンションへと転居しました。重度障がい者が単身で入居できる賃貸物件を探すのは、想像以上に骨が折れる作業だったと振り返ります。
「愛媛にはお世話になっていたヘルパーさんや相談員の人がいますが、何しろ大阪にはツテがない。不動産屋から煙たがられながらも、粘り強く電話で交渉し、車いすで入居できる家を探しました。荷物は事前に運び込んでおいて、当日は父が運転する介護用のレンタカーに乗り、愛媛から大阪まで身一つで引っ越しました。ヘルパーさんも、訪問看護師さんも、お医者さんも、すべてが新しい人間関係でしたが、そのどれもが新鮮で。引っ越しから2か月近くたった先日、ようやく準備が整って車いすで家の近くを散歩したんですが、外の空気を吸って、関西弁を耳にして、自分は大阪に来たんだという実感が持てました」
現在、ヘルパーの訪問は朝・昼・夕・夜の1日4回。生活費は障がい者年金と、情報発信プラットフォーム「note(ノート)」に執筆した有料記事による月数万円の収入で賄い、「何とか生活はできています」と話します。コツコツと書き溜めたnote記事は140本以上。「障害者として親を恨んだ事はあるか」「重度身体障害者が恋愛をするということ」など、当事者にしか語り得ないエピソードの数々を赤裸々につづっています。
今後は大阪での生活を足掛かりに、さまざまな場所に出かけ、多くの人と交流していきたいと語るウッディさん。その生き方は、指1本しか動かせない寝たきりの生活であっても、世界を広げる方法はたくさんあるのだということを示しています。
(Hint-Pot編集部/クロスメディアチーム・佐藤 佑輔)
