Hint-Pot | ヒントポット ―くらしがきらめく ヒントのギフト―

カルチャー

稲垣吾郎と二階堂ふみが破滅する作家とミューズに 自身を脱ぎ捨てて挑んだ『ばるぼら』 漫画の神様の内面に迫る100分

公開日:  /  更新日:

著者:関口 裕子

『ばるぼら』2020年11月20日(金)よりシネマート新宿、ユーロスペースほか全国公開 (c)2019『ばるぼら』製作委員会
『ばるぼら』2020年11月20日(金)よりシネマート新宿、ユーロスペースほか全国公開 (c)2019『ばるぼら』製作委員会

 日本漫画界の巨匠、神様とも呼ばれる手塚治虫氏。残した作品は約700タイトルに及びますが、息子の手塚眞監督によると“自身の理性的な漫画の世界をぶち壊したい欲求”をくすぶらせていたとか。本作の原作「ばるぼら」でも“芸術”の探究や葛藤といったアーティストの内面が生々しく描かれています。そんな作品に挑んだ稲垣吾郎さんと二階堂ふみさんにもまた、何かをぶち壊し脱ぎ捨てる意識があったのかもしれません。映画ジャーナリストの関口裕子さんに解説していただきました。

 ◇ ◇ ◇

稲垣と二階堂が見せる“生の感情”

 稲垣吾郎と二階堂ふみが主演する、かなりセクシーな映画『ばるぼら』が公開された。原作は、手塚治虫が1973年から74年にかけて「ビッグコミック」に15回連載した漫画。耽美派の人気作家・美倉洋介(稲垣)が、酒浸りの女性・ばるぼら(二階堂)を小説創作のミューズとしたことから、名声も、財産も、自分自身すらも失っていく幻想的物語だ。手塚治虫生誕90周年を記念しての映画化で、息子である手塚眞が監督を務める。

『ばるぼら』には、1970年に手塚治虫が監督したSFアニメーション『クレオパトラ』と地続きの世界観がある。歴史上の人物シーザーやアントニウスらを、虚飾の肉体美で虜にし、暗殺を繰り返すクレオパトラのセックスシーンや全身整形シーンがエロティックに描写された同作。小学生の頃、眠りこけた居間で放送されているのに気付き、気まずくて起きられず、寝たふりで最後まで観た衝撃作だ。

 主人公の美倉が異常性欲に悩まされている設定の「ばるぼら」にも似た匂いを感じていたが、映画版にいやらしさはなかった。見せられているのが裸体ではなく、むき出しの心であるように感じられたからか? 演じているのが、稲垣吾郎と二階堂ふみという、実体の分からない“芸術”にも真摯に向き合おうとする2人だというのも大きいかもしれない。

 手塚眞監督は、漫画家・手塚治虫が、自身の理性的な漫画の世界をぶち壊したい欲求をくすぶらせていたようだと言う。漫画の神様と言われた手塚治虫にすら、そんな葛藤を抱かせる“芸術”とはいったい何なのか?

 誰もが裸で生まれてきたわけだが、何かを築きあげたなら、そこに生まれたパブリックイメージを脱ぎ捨てることを恐ろしいと感じるだろう。

 稲垣と二階堂が見せるのはそれを恐怖と感じる“生の感情”と、美倉とばるぼらというアーティストとミューズの感情がないまぜになったものなのかもしれない。そこには、アイドルや朝ドラ俳優といったこれまでのキャリアを消費物とせず、“芸術”へと昇華させようと緊張気味に取り組む姿も見える。

俳優が自らを画材として差し出した結果は

 手塚治虫は、「手塚治虫漫画全集146」のあとがきに、ジャック・オッシェンバッハのオペラ「ホフマン物語」にインスパイアされて「ばるぼら」を描いたと綴っている。

 詩人ホフマンが、芸術の女神ミューズと悪魔の駆け引きによって、恋を取るか芸術を選ぶか葛藤するが、結局3つの恋を失うハメになる。恋は名誉や名声のメタファーでもあり、そこには名声を得るために妥協するか、主義を貫くために孤高を貫くかという、アーティストの葛藤が描かれる。「ホフマン物語」は、手塚治虫にとって「青春の感慨であり、人生訓」なのだという。

 この意味において、美倉とはある意味で手塚治虫の分身でもある。稲垣は、『ばるぼら』に込められた原作者の人生訓を自分に引き寄せ、演じた美倉に封じ込めた。

 原作の美倉は異常性欲を執筆の糧とすることで日常との均衡を取っている設定だが、稲垣の美倉はもっと繊細で、損得で群がる女たちを避けた結果、何も持たないばるぼらを選んだように見える。セックスすら相手との距離をうまく測れないために選んだ行為のようだ。

 二階堂も、美倉の創作心をかき立てる“ミューズ”という存在を受け止めた。ばるぼらは、アーティストたる男性たちのミューズとなることで生きる。その70年代的ともいえるばるぼら像に、二階堂は「共感できたわけではなかった」というが、あえて感情を捨てて“空っぽ”で臨んだそうだ。

 人間性を失いそうなアプローチだが、ここではそうすることでしか“芸術”とは何かを探る方法は得られないと観念したのではないか。手塚治虫もその答えを考え続けた“芸術”とは何かを、俳優であるならば一度は対峙し、できれば理解しておきたいと。

 それぞれのアプローチを経て、俳優が自らを画材として差し出したことで、映画全体がひと固まりの総合芸術へと昇華した。いや、俳優だけでなく、撮影監督のクリストファー・ドイル然り、美術統括の磯見俊裕然り、扮装統括の柘植伊佐夫然り、音楽の橋本一子然り。それぞれの原作へのリスペクトが、それぞれの最善を判断させ、それを手塚眞監督が繊細だがゆとりを持たせてまとめた。

 手塚治虫という巨匠の人間味に迫る濃密な映画。100分の幻想的な時間は、深いところまで思考を連れて行ってくれた。

 
『ばるぼら』2020年11月20日(金)よりシネマート新宿、ユーロスペースほか全国公開 (c)2019『ばるぼら』製作委員会

(関口 裕子)

関口 裕子(せきぐち・ゆうこ)

映画ジャーナリスト。「キネマ旬報」取締役編集長、米エンターテインメントビジネス紙「VARIETY」の日本版「バラエティ・ジャパン」編集長などを歴任。現在はフリーランス。