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仕事・人生

地方局女子アナから起業家へ 苦境支えた父の教え 「仕事は自分で考えて作るもの」

公開日:  /  更新日:

著者:Hint-Pot編集部・佐藤 直子

大学時代に経験積むも入社後にプロの洗礼…「自分の声の小ささに愕然」

毎日の発声練習を欠かさなかった青森放送時代の樋田さん【写真提供:トークナビ】
毎日の発声練習を欠かさなかった青森放送時代の樋田さん【写真提供:トークナビ】

 ただ、超難関の就職試験を突破してアナウンサーの夢を勝ち取った青森放送では、いきなりプロの洗礼を浴びることに。「自分の声がいかに小さかったか、驚いてしまって……」と振り返ります。

「先輩アナウンサーがしゃべるとマイクがなくても響くんです。大学時代に場数も踏んで、ある程度声は出ると思っていたので、自分の声の小ささに愕然としました。これがプロか、と。さらにアナウンサー歴が10年を超える先輩が毎朝毎晩、生放送を終えた後に発声練習をしているんです。上手なベテランでも練習し続ける姿に衝撃を受けて、私も仕事の合間を縫って1日4時間、発声練習をしました」

 一見すると華やかな職業でも、その陰にはたゆまぬ努力が隠されています。テレビとラジオを兼営する青森放送では、ニュース読み、情報番組のリポート、インタビュー、食レポなど、新人からあらゆるジャンルを経験。岐阜出身の樋田さんには青森の方言が分からず「会話がキャッチボールにならない失敗もありました」と語ります。

 しかし、ニュースキャスターに憧れていたものの、自然に上がる口角と明るく細い声質がシリアスなニュースには合わず、「理想と現実のギャップが大きすぎて悔しかったです」とも。試行錯誤の日々が続きましたが、知れば知るほど奥が深いアナウンサーという職業の魅力に惹かれていきました。

 一方で「生涯続けていきたい」と思いつつ、周りを見回してみると、女性アナウンサーの多くは結婚や出産を機に退職するか、働き続けても部署異動になったりラジオ制作担当になったり。女性アナウンサーとして長く働く難しさを痛感したといいます。

「ならば、自由が利く20代のうちに道を作っておこう」。そう考えた樋田さんは28歳で一念発起。フリーアナウンサーとなり、2014年に拠点を東京へ移しました。

「とにかく東京へ」と一歩踏み出してみたものの、フリーアナウンサーは飽和状態。半年ほど事務所に所属しましたが、オーディションに受からないと仕事にはなりません。「他の人と同じ動きをしていたら何も始まらない」と考えた樋田さんは、自分の手で自分のセカンドキャリアを生み出すため、会社を立ち上げることにしたのです。

「幼い頃から擦り込まれていた」 起業時に思い出した父の言葉とは?

フリーのアナウンサーとして活躍していた頃の樋田さん【写真提供:トークナビ】
フリーのアナウンサーとして活躍していた頃の樋田さん【写真提供:トークナビ】

 もちろん、会社を作るには設立資金が必要です。当時は決して金銭的に余裕がある生活ではなく、何か方法がないかと調べるうちに出会ったのがクラウドファンディングでした。インターネットを通じて多くの支援が集まると同時に、会社の方向性を決めるヒントも見えてきました。

「話し方や伝え方に困っている方が世の中にはたくさんいて、働きたいけど働く場所がない女性アナウンサーもまたたくさんいる。『だったら、この2つを繋げればどちらもハッピーになれるのでは』と考えました。そこで2つを繋ぐプラットフォームを作ろうという発想になったんです」

 自分で仕事を生み出すという発想は、子どもの頃から聞き慣れた父の言葉が土台になっているそう。

「父は若くして起業独立した人で、よく『自ら考え、動いて作ったものが仕事であって、言われたことをやるのはただの作業だ』と言っていました。幼い頃からその言葉が刷り込まれていたので、困った時にふと思い出したんでしょうね(笑)」

 こうして樋田さんの起業家としてのキャリアが幕を開けました。

◇樋田かおり(といだ・かおり)
岐阜県出身。高校時代に経験した“ウグイス嬢”で声の持つ魅力を知り、アナウンサーを目指す。2008年、日本テレビ系列RAB青森放送にアナウンサーとして入社。報道番組のお天気キャスターやニュースキャスター、ラジオパーソナリティーなど幅広く経験を積む。14年に28歳で独立して上京。1年後の15年に株式会社「トークナビ」を設立し、「声で、未来を変える」をコンセプトに企業研修などを実施しながら「伝える力」の大切さを広めている。一般社団法人「日本アナウンサーキャリア協会」の代表理事も務める。

(Hint-Pot編集部・佐藤 直子)