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オードリー・ヘプバーンの光と影 希代の大スターが晩年に静かな生活を求めた理由とは

著者:関口 裕子

初のドキュメンタリー作品『オードリー・ヘプバーン』の一場面(c)TrinityMirror:Mirrorpix:AlamyStockPhoto (c)2020 Salon Audrey Limited. ALL RIGHTS RESERVED.
初のドキュメンタリー作品『オードリー・ヘプバーン』の一場面(c)TrinityMirror:Mirrorpix:AlamyStockPhoto (c)2020 Salon Audrey Limited. ALL RIGHTS RESERVED.

 5月4日はオードリー・ヘプバーンの誕生日でした。1993年1月20日に63歳で逝去してから29年が経った今も、世界で愛されるスターでありファッションアイコン。コケティッシュとも称されるその魅力は、スクリーン上で永遠の輝きを放ち続けています。そんな彼女の素顔をうかがわせる初のドキュメンタリー映画は、希代の大スターに存在した光と影を余さずとらえているようです。晩年は慈善活動に身を捧げたことでも知られていますが、そこにはあまり知られていない少女時代の不幸な境遇があったのかもしれません。映画ジャーナリストの関口裕子さんに解説していただきました。

 ◇ ◇ ◇

母親からの“言葉の暴力”と戦争…父の愛を求めた少女時代

『ローマの休日』(1952)、『麗しのサブリナ』(1954)などオードリー・ヘプバーンほど輝きを失わず、今もスターとしての存在感を放ち続けている俳優はいないのではないか? そんな彼女の素の姿を家族や関係者の証言から浮かび上がらせた初のドキュメンタリー作品『オードリー・ヘプバーン』が公開される。

 オードリーの両親は、オランダ領東インドで出会ったらしい。父親のジョゼフ・ヴィクター・アンソニー・ラストンはオーストリア系の母、英国とオーストリア系の父を持ち、母親のエラ・ファン・ヘームストラはオランダ貴族でオランダ領東インド総督の娘だった。

 ヘプバーンの名はジョゼフの遠い親戚に、スコットランド女王メアリーの配偶者の1人、ジェームズ・ヘプバーン(第4代ボスウェル伯爵)がいることをエラが発見し、戸籍に加えたものだそう。血のつながりのないことが現在は明らかになっているようだが。

 オードリーの母エラはもしかするとネグレクト気味だったのかもしれない。エラはジョゼフと1926年に結婚し、1929年にベルギーの首都ブリュッセルにあるイクセルという町でオードリーを出産する。30年代に入ると2人ともナチズムに傾倒していき、ジョゼフはイギリスファシスト連合の「黒シャツ党」に入るため1935年に英国へ渡り、1939年にそのまま離婚。オードリーはエラが悲嘆にくれる姿を見続け、彼女自身もファーザーコンプレックスに陥る。

 エラはその悲しみをオードリーにぶつけたのだろう。1939年9月に始まった第二次世界大戦が激しくなってくると、英国の女学校に留学していたオードリーをオランダのアーネムに呼び戻す。だが戦火はオランダの方が激しく、1940年にアーネムもナチス占領下になり、オードリーたちも激しい弾圧と飢餓を味わうことになった。チューリップの球根で作ったパンを主食にしていたという証言に驚愕する。

 オードリーにはそこに母親からの“言葉の暴力”が加わったのだ。エラはオードリーを「醜い」と形容していたという。そのせいでオードリーは自分を醜いと思い込んでいた。その後のオードリーの活躍を知る私たちは、それが相手を圧倒的な力で押さえつけようとする単なる暴力であることが分かるのだが。

 当初、ナチス礼賛だったエラは、ナチスの非道にレジスタンスへと転換する。アーネムにナチスが進行してきた時、市民は来週には収まるだろうと高をくくっていた。だが戦争はそれから5年も続いたのだ。その間にオードリーの伯父は処刑され、異父兄は強制収容所に送られた。つい最近、聞いたような話でこれにも背筋に緊張感が走った。

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