カルチャー
オードリー・ヘプバーンの光と影 希代の大スターが晩年に静かな生活を求めた理由とは
公開日: / 更新日:
バレエの道を断念 数々のクリエイターを魅了する俳優へ
1945年に終戦を迎え、オードリーは5年間のブランクを埋めようとバレエの勉強を始める。1948年にはプリマドンナを目指し、英国のロンドンに留学。バレエ・リュスでヴァーツラフ・ニジンスキーの助手として「春の祭典」などの振り付けに携わったマリー・ランバートに学ぶが、19歳になっていたオードリーにプリマドンナになる道は残っておらず、ミュージカルに可能性を探る。
ミュージカル映画『モンテカルロ・ベイビー』(1953)の撮影をモナコ・モンテカルロで行っていた時、のちにミュージカルとなる「ジジ」の原作者シドニー=ガブリエル・コレットと出会い、ブロードウェイへの出演を打診される。それでブロードウェイへの切符を掴むのだが、オードリーにはもう一つの出会いがあった。
それは『ローマの休日』(1953)の主演への切符だ。主演のグレゴリー・ペックの相手役となるアン王女役の若手を探していたスタッフはオードリーが端役で出演していた『素晴らしき遺産』(1951)を見て、監督のウィリアム・ワイラーに薦めた。これがドンピシャの人選となった。
当時、世界的人気を誇っていた英国のエリザベス王女がモデルになっているのは間違いないだろうこの映画。エリザベス・テイラーに白羽の矢が立っていたというアン王女役だが、ワイラー監督が考えていたのは色気のあるスターではなく、アーモンド型の目に漆黒の髪、優美な体型の気品と、優美さの中にも庶民性が垣間見える新進俳優だった。
それまでのハリウッドには存在しなかったタイプの俳優。オードリーの存在は映画監督や映画ファンだけでなく、多くのアーティストを刺激した。刺激を受けた最たる存在は『麗しのサブリナ』(1954)、『ティファニーで朝食を』(1961)に衣装を提供したデザイナー、ユベール・ド・ジバンシィだ。
オードリーを現在にも通じるスターにしている理由には、彼の手がけた普遍性のあるドレスの存在も貢献しているだろう。ユベールにドレスを作らせたいと思わせたのは、オードリーの人となりと表現力なのだが。