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宝塚の歴史で燦然と輝く「華の71期」 元星組トップ稔 幸さんが語る音楽学校時代

公開日:  /  更新日:

著者:Hint-Pot編集部・瀬谷 宏

インタビュアー:竹山 マユミ

退団後はクリエイターとしても活躍する稔 幸さん【写真:荒川祐史】
退団後はクリエイターとしても活躍する稔 幸さん【写真:荒川祐史】

 100年以上も続く宝塚歌劇団の歴史の中で、同期から男役4人、娘役1人とトップスターが次々と生まれた世代があります。それは「華の71期生」。1985年に入団した愛華みれさん(花組)と真琴つばささん(月組)、轟悠さん(雪組)、鮎ゆうきさん(娘役・雪組)、稔 幸さん(星組)という豪華な顔ぶれです。今回の「Spirit of タカラヅカ」には稔 幸さんが登場。当時の思いや知られざるエピソード、さらにファンを驚かせた電撃結婚の裏側などについて、宝塚をこよなく愛するフリーアナウンサーの竹山マユミさんがお話を伺いました。3回にわたってお届けします。

 ◇ ◇ ◇

同時期に同期4人がトップスターに就任 原点は音楽学校時代の「予科生時代」

竹山マユミさん(以下竹山):現在の男役トップスターは花組の柚香光さんと星組の礼真琴さん、月組の月城かなとさんの3人が95期生ということでも話題です。それだけに、稔さんの「華の71期生」の男役4人がトップスターに同時就任していたというのは、改めてすごいことだと実感させられます。当時はどんなお気持ちで舞台に立ってらっしゃったのですか。

稔 幸さん(以下稔):実際のところ、私たちはそれぞれの組でそれぞれの役割を必死で務め、自分自身と闘っていました。後から考えてみれば「同時期にトップだったね」という感じなので、当時はあまり意識してなかったと思います。

竹山:4人で切磋琢磨して一致団結、という感じではなかったのですか。

:下級生の頃から選抜メンバーでのイベントなどに集まると、「頑張ろうね」とか「このポジションまできたね」といった話はしました。でも、組によってスターシステムやその序列、仕組みがまったく違ったので、それぞれのポジションでそれぞれが頑張っているのを見守っている感じでしたね。

竹山:当時は密に連絡を取っていたのですか。

:できていなかったですね。稽古場で会えばエールを送り合うような感じでしたが、実際は稽古場でもほとんど会えず、組によってはまったく会えないことも。ネットがない時代でしたから、情報も入ってこないのです。「今の時代だったらもっといろいろ交流できたのかもね」というようなことはよく話しています。今も周りからは不思議がられるくらいに仲は良いですね。個性は見事にバラバラですが、お互いを思いやれるポジションにいたからかもしれません。

竹山:それは宝塚音楽学校に入学された時からだったのですか。

:宝塚音楽学校に入ると、すぐに過酷な掃除の生活が待っています(笑)。一番厳しいといわれていた「講堂掃除」という分担では、その中で玄関掃除の担当になる3人が受験の時に悪目立ちしていた3人といわれているんですね。そこの責任者が私で、次が真琴、そして轟でした。

 私は宝塚をよく知らないまま入りましたが、真琴はその時からすでに男役の雰囲気を出していました。でも、轟は太い三つ編みをした泣き虫のお嬢ちゃん。数年後、気がついたらバリバリの男前になっていましたが、私の中では、今でもかわいい妹(弟?)のような存在です。

まず宝塚で求められたのは「個を消す」こと 厳しい環境の中で生まれた連帯感

稔さん(左)とインタビュアーの竹山さん【写真:荒川祐史】
稔さん(左)とインタビュアーの竹山さん【写真:荒川祐史】

竹山:親元を離れて音楽学校に通い、その厳しい環境の中では時々泣きながら、励まし合いながらの生活だったのですね。

:愛華と真琴、そして私の3人は高卒でしたから責任ある立場にいました。いろいろな役目を予科生(2年制の宝塚音楽学校では1年生にあたる)の時に請け負っていたので、そこで毎晩のように話し合いなどをしていましたね。芸事とかではなく、いかにこの1年を乗り切るかといったテーマで。

竹山:同期をまとめて、1年間しっかり支え合っていくことが身についたのですね。

:あの時は団体を意識する行動を強いられていました。芸能活動の受験ですから、それぞれが自分をいかに良く見せようかと考えて入学してくるわけです。でも、当時の宝塚はそこからが独特で、まずは個を消すことが求められました。

 最初のお披露目公演で踊るラインダンスでは、「一糸乱れない」という部分が宝塚の美しさにつながっていると思います。ダンスが得意だった私は足を高く上げることができましたが、隣の子はそこまで上がらない。そうなると、振り付けの先生は「いくら自分の足が高く上がっても、そこで揃えられなかったら美しくない」と言って、隣の子の足が上がらないと私がすごく叱られました。結果、自分のために同期が叱られないように必死で練習し、みんなが高く上げられるようになったのです。

竹山:それほど厳しい環境の中だったからこそ、結束力が生まれたのですね。

:「脱落者を絶対に出さない」という連帯感のようなものはありました。できない人がいれば、その人のところにみんなが降りていって一緒に上がるというやり方をしていたので、あの1年間は本当に濃厚でしたね。芸事からかけ離れた仕事があまりにも多くて、私たちは何のために入ったのだろうと悩んだこともありましたが、それによって心身ともに鍛えられたのだなと思います。