カルチャー
『ケイコ 目を澄ませて』で耳が聞こえないボクサー役 岸井ゆきのから目が離せない理由
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監督が映画音楽を使わなかった意図とは?
ボクサーであるなどキャラクターの一要素を突出させるのではなく、ケイコというキャラクターそのものを映像内で呼吸させ、生活させる岸井の演技。そこには三宅唱監督の演出も大きく影響している。
例えば、サウンド設計。聴者とろう者の環境の違いを際立たせることで、主人公が“音のない世界で生きる”ことを際立たせた『Coda コーダ あいのうた』(2021)や『サウンド・オブ・メタル ~聞こえるということ~』(2020)は、無音を体験させることで作品のポイントを観客に共有させた。
だが三宅監督は、映画音楽を使わず、またある場面を無音にして客観的な追体験をさせるなど、決定的な音の差を出さず、聴者とろう者の受け取る情報にあえて大きな違いが出ないように描いたのだという。音声情報や音楽には、観客の感情を誘導する働きがある。それを踏まえ、「音を消して鑑賞したとしても、物語の理解やエモーションの伝達が損なわれないような演出やカット割を模索した」のだと。
そのような演出を選んだ理由は「何だか“分かった気になる”だけのような気がした」からなのだと。「聴者の僕にできることは、自分や周囲の多くが聴者であることを何度も自覚すること、そうではない人がいることを意識し続けること」が大切なのではないかと語っている。
ただ1か所、映画から手話を使えない者が意図的に取り残されるシーンを作った。ろう者の俳優である山口由紀、長井恵里と岸井が、隅田川沿いのカフェで談笑する場面。三宅監督はあえてここに字幕を付けなかった。我々は、分かっても分からなくても、じっと彼女らの手元を見るしかない。三宅監督は、この感覚を浮き彫りにしようとしているのだと感じた。
岸井の手話がどのくらい完璧なのか、残念ながら分からない。しかし彼女の観客を意識することのない早い手話で、自分の言いたいことを、たぶん言葉を選ばず話している姿を小気味よく感じた。手話を学んだ岸井の感想が、「大変だ」とか「難しい」などというものではなく、「手話を使う方の中にも、おしゃべりな人と無口な人がいる」というものであったことに苦笑した。
ケイコのボクシングから伝わる相手へのリスペクト
岸井は“人を殴る”スポーツであるボクシングに当初、なかなか前向きになれなかったという。「誰だって痛いのは嫌いだし、怖いし、それでもなお打ち込み続けるというのは、やはり自分の弱さに打ち勝ちたいのだと思います」と。「痛いのは嫌い」という言葉はセリフにもある。岸井の実感を三宅監督がセリフにしたのかもしれない。
またボクシングを「リスペクトがないとできないスポーツ」だとも語っている。だからこそ「拳を突き合わせることで信頼関係が生まれる」のだと。思ってもみなかった視点だ。
殴られた経験があれば、誰だってその瞬間に湧き出る感情が“怒り”だと知っている。怒りが生じる行為をスポーツとして成立させるのはルールとリスペクトだ。「卑怯な手を使っても、勝てば何でもいい」では勝者とはいえない。ボクシングとは、その上で瞬間と自分を制した者が勝者となるスポーツなのだ。ケイコのボクシングからは、そんなことが伝わってきた。
井上選手が恐怖を感じないのは、恐怖を変換するマインドを持っているからなのかもしれないし、リングの上には勝負以外、一切の感情を持ち込まないメンタルのせいかもしれない。そして岸井に倣って言えば、やはり対戦相手にはリスペクトがあるように感じる。現実世界にルールとリスペクトのない非道が横行するからこそ、我々は彼らの戦いぶりに魅了されるのかもしれない。
『ケイコ 目を澄ませて』テアトル新宿ほか全国公開中 配給:ハピネットファントム・スタジオ (c)2022 映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINEMAS
(関口 裕子)
関口 裕子(せきぐち・ゆうこ)
映画ジャーナリスト。「キネマ旬報」取締役編集長、米エンターテインメントビジネス紙「VARIETY」の日本版「バラエティ・ジャパン」編集長などを歴任。現在はフリーランス。