Hint-Pot | ヒントポット ―くらしがきらめく ヒントのギフト―

仕事・人生

市役所職員からリンゴ農家に 50代半ばで「地域おこし協力隊」に参加した男性 立ちはだかった問題とは

公開日:  /  更新日:

著者:芳賀 宏

新しいことを始めるのに立ちはだかる年齢の壁

 2021年2月、リモートでの採用面接を前に「町のことを質問されて、答えられへんかったらまずいでしょ(笑)」との理由で、芳野さんは初めて立科町を見にいきました。見学の際は、立科町役場の若い職員さんが案内を担当。当時の印象について、「寒いけれど雪は少ないし、なんとかなるかなと思った」と語ります。

 無事に採用が決まり、ゴールデンウィークに単身で移住。仕事を持つ配偶者とは以前から家事を分担していたので、日々の生活に困ることはありませんでした。しかし、肝心の“リンゴ農家への道”はなかなか厳しかったようです。

 若い就農者には国や県の助成金がありますが、概ね50歳を過ぎると、自治体に独自の制度がなければ金銭的な補助はありません。農家になるには田畑はもちろん、農業機器などの購入に、先立つものが思った以上に必要なのが現実です。

 自身が行政機関出身だけに、「町が就農希望者を募集しているので、事前にいろいろと受け入れ準備をしてくれているものだと考えていました。ちょっと甘かったのかもしれません」といいます。町の担当者からは、研修先として町内で最も大きなリンゴ生産協同組合を紹介してもらいましたが、そこから先は自分で進めるしかありませんでした。

 研修先ではさまざまな作業を教えてもらったとはいえ、「園地が広大なため毎日違う木を割り振られるので、一本の木の成長度合いを見るのはなかなかできなかった」と1年目を振り返ります。

 それでも約8か月が過ぎた2021年末には、町内の方のツテで、高齢の園主さんが亡くなったあとを引き継ぐ人を探していると聞き、手を挙げました。こうした情報は“現場”にいないとなかなか入ってこないものです。もちろん、果樹農家は木がなければ収穫できませんし、ただ待っていれば都合良く畑が見つかる保証などありません。

 引き受けた木は約200本。必要な農機具もそろっているし、偶然にも研修先の隣接地で消毒作業などをお願いできたのもラッキーでした。正式就農の届けを出すには少し面積が足りませんでしたが、これでようやく“一国一城の主”に。

 しかし、独り立ちしてまた問題に直面しました。

困難も多かった就農1年目 “師匠”不在の影響で苦労も…

 初めて自身の畑を持った昨年は大豊作でした。とはいえ、ひとりでは収穫できませんし、リンゴを売らなければ収入になりません。直売所や個人の販売先もありますが、農家の多くは農業協同組合(以下、JA)に一部の販売を委託しています。これは、規格に合わせて出荷すれば包装や販売の手間がなくなるのが利点です。ただしJA加盟には、地域の部会に入り、年に1回開催されている総会で承認を受ける必要があります。就農1年目は総会に間に合わず、山のようなリンゴの在庫を抱えることになったのです。

 収穫は仲間の隊員らの手を借りたものの追いつかず、12月に入っても「どうせ出荷しないから……」と一部の実を木に残したままにしていました。リンゴは、11月いっぱいに収穫を終えなければ実が凍って売り物になりません。しかも、実がついたままでは木が弱り、翌年の芽に影響が出るとは知らず、深刻な事態を招くことなど、このときは想像もしていませんでした。

 立科町の移住者でリンゴ農家になった方の多くは、農業大学校に通い、紹介された里親のもとで修業するか、先輩農家に弟子入りしてから独立しています。芳野さんも研修こそ受けていますが、「痛感するのは“師匠”がいないこと。栽培の技術だけやなく、いろいろなことを身近で教わる機会がなかったので苦労はあります」と悔やみます。

 困ったことは畑でのことに限りません。作業をするための新たな家探しも必要になりました。それというのも、一般的に収穫したリンゴは自宅敷地に持ち込んで選果し、出荷まで倉庫で保存します。アパート暮らしの芳野さんにとって、作業ができる家に住むことは仕事に直結した課題なのです。

 以前、この連載でもお伝えしましたが、立科町は移住希望者はいても提供できる家が足りていない実情があります。「できれば畑に近くて作業スペースがあるのが理想やけど、なかなか難しいですね。『協力隊』でいるうちに見つけないと……」と頭を悩ませています。

(芳賀 宏)

芳賀 宏(はが・ひろし)

千葉県出身。都内の大学卒業後、1991年に産経新聞社へ入社。産経新聞、サンケイスポーツ、夕刊フジなど社内の媒体を渡り歩き、オウム真理教事件や警視庁捜査一課などの事件取材をはじめ、プロ野球、サッカー、ラグビーなどスポーツ取材に長く従事。2019年、28年間務めた産経新聞社を早期退職。プロ野球を統括する日本野球機構(NPB)で広報を担当したのち、2021年5月から「地域おこし協力隊」として長野県立科町に移住した。