仕事・人生
「無理に好かれようとしないこと」 中山秀征さんの人とのつきあい方 失敗も糧にする強さとは
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生放送で大寝坊の経験も 失敗さえも最大限に楽しんだ当時のテレビ業界
――また、テレビの古き良き時代のお話がたくさん書かれていたので、とても懐かしく思いました。多くの方と共演されてきましたね。
「飯島愛さんや久保純子さん、麻木久仁子さんら、多くの女性共演者とコンビを組んできましたが、毎回、新しいスタイルができてきて、うまく育てていただいたと思っています。
また、上岡龍太郎さん、徳光和夫さん、島田紳助さんらベテランの司会者の方々からは、プロのテクニックを学ばせてもらいました」
――本に書かれてないことを伺いたいのですが、約40年のキャリアの中で最大の失敗を教えていただけますか?
「それこそ忘れもしない、『OH!エルくらぶ』の生放送に寝坊で遅刻した事件ですよ。毎週土曜日の朝9時30分から10時45分の生放送だったのですが、その日は目が覚めたら、外がすごく明るかった。テレビをつけたら、一緒にMCを担当していた渡辺正行さんやアンジュさんが、すでに番組を始めていて固まりました……。
夢かも知れないとシャワーを浴びてみたのですが、やはり夢じゃなくて、急いでアークヒルズにあるスタジオに向かいました。渡辺さんが『誰かヒデちゃんを見かけたら、スタジオに来るように伝えてください』とコメントしているのを自室のテレビで見ることになるなんて、衝撃でした」
――生放送なのに寝過ごしてしまうなんて、相当ショックですね。でも、放送時間中には到着できましたよね?
「当時、中目黒に住んでいて六本木はすぐだったので、なんとか放送中にスタジオに着いたのですが、この状況をおもしろいと思ったプロデューサーのMさんが、中に入れてくれないのです。『VTR明けでいこう』『いや、やっぱりCMまたいでからにしよう』と引っ張られ、番組が終わり間際になってやっと入れてもらえました。
プロデューサーは、遅刻という失敗をマイナスなままでなく、最大限利用して視聴率に結びつけようと考えたのです。この発想の転換が素晴らしいです。そして、当時のテレビには、それが許されるおおらかさがありました。ただ、その翌週からオンエアの前日はスタジオ横の全日空ホテルに宿泊することになってしまいましたけど(笑)」
――Mプロデューサーは物静かな方という印象でしたが、そのような大胆なこともされたのですね。
「もっとすごいこともありましたよ。あるとき、女性関係で週刊誌に撮られて、テレビ局の出入り口で週刊誌のカメラマンが待ち伏せしていたことがありました。番組が終わっても局から出られずに困っていたら、Mさんが、アークのスタジオには久米(宏)さんしか通らない裏ルート、通称『久米ロード』があるから、そこから出なよと案内してくれたんです。
良かった、これで週刊誌をまける! と思って扉を開けたら、そこにはテレビ朝日と書かれたワイドショーのカメラが待っていたのです。驚いて後ろを振り返ったら、『ごめんね』のポーズをしているMさんの姿がありました(笑)」
――コントみたいですが、昔のテレビの現場って楽しかったですね。
「これがテレビだと思いましたね。作り手も最大限に楽しんでいました」
変貌を遂げてきたテレビ業界 今後は音楽バラエティ番組に意欲
――テレビ業界を取り巻く状況は大きく変わりましたが、これからのテレビはどうなっていくと思われますか?
「コンプライアンスが厳しくなったなどの問題もありますが、最初からできないと言う前に、できることを探そうよと思います。とくにテレビに出ている人たちに、テレビは終わったなんて言ってほしくないですね。
制作もアーティストも今のほうがレベルは上がっているのだから、原点に戻ってしっかり作り込んでいけば、まだまだできることはあるはず」
――今後やってみたい番組はありますか?
「歌、トーク、コントが入った音楽バラエティ番組をやりたいですね。実は、ステージではすでにやっています。昭和歌謡を中心とした『ヒデライブ2024』を今年の秋も開催予定。これを番組でやってみたいです」
懐かしい昭和の雰囲気を楽しめるライブでしたら、私もぜひ聴きに行きたいです。そして中山さんには、“令和のテレビ”を盛り上げていくリーダーとして頑張っていただきたいと思います。
(日下 千帆)
日下 千帆(くさか・ちほ)
1968年、東京都生まれ。成蹊大学法学部政治学科を卒業後、テレビ朝日入社。編成局アナウンス部に配属され、報道、情報、スポーツ、バラエティとすべてのジャンルの番組を担当。1997年の退社後は、フリーアナウンサーとして、番組のキャスター、イベント司会、ナレーターのほか、企業研修講師として活躍中。