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仕事・人生

残暑厳しい日に突然発症した脳梗塞 40代で失語症になった戯曲翻訳家が味わった絶望と過酷なリハビリ

公開日:  /  更新日:

著者:Miki D'Angelo Yamashita

戯曲翻訳家として活躍していたなか、脳梗塞で失語症を発症した石原由理さん【写真:Miki D'Angelo Yamashita】
戯曲翻訳家として活躍していたなか、脳梗塞で失語症を発症した石原由理さん【写真:Miki D'Angelo Yamashita】

 戯曲翻訳家として、海外作品を日本の舞台に届け続けてきた石原由理さん。40代の充実したキャリアの最中、脳梗塞に倒れ、右半身麻痺とともに失語症の障がいが残りました。言葉を生業としていた石原さんは、絶望の淵に突き落とされます。しかし持ち前の演劇への情熱と不屈の精神で、壮絶なリハビリの日々を乗り越え、独自の「朗読」による失語症克服メソッドを編み出しました。現在は、一般社団法人ことばアートの会代表として、多くの障がい者を支援しています。インタビュー1回目は、演劇との出合い、戯曲翻訳家として順調な仕事、突然の脳梗塞発症から回復初期の壮絶な日々までを語っていただきました。

 ◇ ◇ ◇

宝塚に魅せられ、観劇三昧の日々

 戯曲翻訳家とは、海外の戯曲を日本語に翻訳したあと日本語版の台本を作成する、翻訳家であり脚本家です。石原さんをその道に導いたのは、小学生の時、地元名古屋で出合った宝塚の舞台でした。

 本拠地・兵庫県の宝塚まで公演を見に行くほどのファンになり、以降、宝塚漬けの日々に。ついには、観劇三昧の日々を送りたいがために、東京の大学に進学します。

 卒業後は、東京で就職したものの体調不良が続き退職を余儀なくされました。名古屋の実家に戻ってお稽古事に勤しみつつ、宝塚だけでなくミュージカルなどにも興味を広げ、演劇中心の生活を続けていました。そんな娘を心配した母親がお見合い話を次々と持ち込み、26歳で結婚しました。

「結婚後も、やはり演劇の世界に関わりたい思いを捨てられず、『学びたい』と相談。家族の理解もあり、単身名古屋から離れて大阪大学大学院に進学し、研究に勤しむ毎日を送りました。

 そんな頃、在籍していた演劇学科に宝塚歌劇の劇評を書くアルバイトが舞い込み、私が引き受けることになりました。その劇評が評価され、海外ヒットミュージカル作品『モーツァルト!』の翻訳に関わらないか、とプロデューサーから依頼されたんです。そこから翻訳の仕事が次々と舞い込み、演劇業界に足を踏み入れることになりました」

翻訳作品を評価されデビュー、演劇界で仕事を広げる

 現場で仕事をするうちに、戯曲翻訳の第一人者、吉田美枝さんに弟子入りしたい、という思いが募り、弟子入り志願の手紙を書いたものの、「弟子はとっていない」という返事をもらいました。しかし「稽古を見るだけならOK」と言われて、ブロードウェイミュージカルの日本公演、『南太平洋』の稽古場に1か月間通う機会を得ます。そのときの熱意が通じてか、最終的には「何か作品を選んで1本翻訳してみて」と吉田さんの気持ちを動かすまでになったのです。

「チャンスを逃したくない、と必死で翻訳した作品を送ったところ、『本当に送ってきたのはあなたがはじめて』と、翻訳を添削していただいたんです。それを文学座の演出家に、『良い作品だからやりませんか』と売り込んだのですが、渡したのは先生の修正が入った完璧な原稿(笑)。すぐに、俳優座劇場で上演されることに決まりました」

 吉田さんからは、「本気でこの仕事をやるなら東京に来なさい」といわれて再び単身で上京。大阪大学大学院は中退し、現場で仕事をすることを選びました。

 戯曲翻訳の仕事は、依頼から納期までが2~3か月。関係する資料を可能な限り買い、まずは日本語で勉強。それから英語のオリジナル作品を読み込み翻訳します。丁寧な仕事をする石原さんのもとには、次々と舞い込みました。