仕事・人生
「知っている人が襲ってきました」 阪神・淡路大震災で自宅全壊 当時中3だった女性の証言から考える災害時の性被害
公開日: / 更新日:

「このまま休みが続けばいいのに」――そう願った翌朝、街は一変していました。阪神・淡路大震災で自宅が全壊し、避難生活を余儀なくされた当時中学3年生の亀村衣世さん。避難所で待ち受けていたのは、過酷な生活だけでなく、顔見知りの男性から襲われるという思わぬ恐怖でした。30年以上が経った今も鮮明に残る、あの日の記憶。9月の防災月間を前に、亀村さんの言葉から、災害時に女性や子どもの安全をどう守るのか、そして日頃から備えることの大切さを考えます。
◇ ◇ ◇
楽しかった3連休 母は三女とこたつで就寝
1995年1月16日、阪神・淡路大震災前日――当時、中学3年生だった私は、成人の日の振替休日で3連休の最終日を過ごしていました。
この日、父と父方の祖父は、親戚の結婚式に出席するため九州へ。自宅には、母と私、中学1年生の次女、小学6年生の三女が残っていました。
祖父はとても几帳面な人で、母は毎日のように気を使っていました。そのため、祖父が留守にしているこの日は、いつもとは少し違う行動を取りました。
「おじいちゃんがいないから、こたつで寝よう!」
母のそんな提案で、その夜は母と小学6年生の三女が1階のこたつで寝ることに。昔ながらの硬いこたつに掛け布団をかけ、そこで一夜を過ごすつもりでした。それが後々、幸いすることになります。
私と中学1年生の次女は、2階の自室へ。
そこは古い和室でしたが、ちょうど自分たちの手で少しずつ好きな部屋に変えているところでした。その年にもらったお年玉を出し合い、昔ながらの押し入れをクローゼットのようにDIYしたばかり。完成したばかりの部屋で、妹と眠りにつきました。
楽しかった3連休が終わる夜、「このまま休みが続けばいいのに……」と思ったことを、今でもはっきり覚えています。
阪神淡路大震災が発生 家具に挟まれ身動きが取れない状態に
――翌朝、5時46分。
マグニチュード7.3、最大震度7を観測した阪神・淡路大震災が、私たちの暮らす神戸を襲いました。
激しい揺れそのものは、正直覚えていません。
目覚めたとき、私は下半身が挟まって動けなくなっていました。倒れてきた学習机とタンスだったと思います。挟まれた足は痛く、辺りは真っ暗。ガスの匂いも漂っていました。
何が起こったのか、まったく理解できませんでしたが、そんな暗闇の中で聞こえてきたのは、次女の泣き声でした。次女は動けたものの、「階段が崩れていて1階に行けない」と泣いていたのです。
ここからの記憶は曖昧なのですが、外へ出た母が2階のベランダ越しに私たちの安否を確認してくれました。私が三女のことを聞くと、母は「死んだかもしれん」と言いました。とにかく何が何やらわからず、涙があふれました。
「連休が終わらなければいいなんて願ったからなのか?」という思いが頭をよぎったのも覚えています。
朝7時過ぎ、近所の方々の協力で私は救出されました。昔ながらの木造家屋で1階は斜めに傾いていましたが、幸い2階はそのままの形だったため、入ることができたようです。
そして、亡くなったと思っていた三女は、こたつの中で無事に寝ていました。あの昔ながらの硬いこたつが、上からの衝撃を防いでくれたのでした。
当時、母は42歳。目の前に崩れた家、頼りになる夫と義父は遠方、そして3人の子どもを抱えて絶望していたと思います。大人になった今、あのときの母の気持ちを思うと、胸が詰まります。
