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“我が女優道”を行く田中裕子65歳 75歳の独居老人を演じる『おらおらでひとりいぐも』で見せた円熟味

公開日:  /  更新日:

著者:関口 裕子

田中裕子という女優 その鮮やかな演技人生

 桃子さんを演じた田中裕子といえば、なんといっても1983年に放送されたNHK連続テレビ小説「おしん」。当時は最高視聴率62.9%をマークし、世界68の国や地域で放送され、いまも再放送のたびに話題になるおばけドラマだ。田中裕子はそのヒロインであるおしんを、健気で優しいが重要な場面では譲らずきっぱりものを言い、素朴だがふとした瞬間に色気を感じさせる、複雑な“魅力”を持つキャラクターに演じあげた。

 その「おしん」の2年前には、今村昌平監督の『ええじゃないか』、新藤兼人監督の『北斎漫画』で日本アカデミー賞の最優秀助演女優賞、新人俳優賞をダブル受賞。同時期放送の田中が出演した「タコが言うのよ」のフレーズが印象的なサントリーの焼酎のCMは、小学生も真似する浸透度だった。

 そんな田中裕子を、もはや多くの人が忘れている。本人がその痕跡を、意図的に消しているとも思えるが。ドラマ「anone」(2018・日本テレビ系)や「なつぞら」(2019・NHK)で初めて知った人はもちろん、白石和彌監督『ひとよ』(2019)で、夫殺しの刑期を終えて戻ってきた母の演技に圧倒された人も、少年のような透明感と艶やかさで魅了した田中裕子を思い出さないだろう。

桃子さんの新しい世界 微妙な喜びを巧みに表現する田中裕子

 本作で桃子さんは、脳内の声である「寂しさ」たちと、カラオケ大会を開催したり、踊ったり、飲んだくれたりする。画面上はにぎやかだが、家の中にいるのは桃子さん1人。そんな様子を沖田監督は、「うるさいほどの静けさ」と表現する。

 桃子さんの脳内の声は、若き日の桃子を演じる蒼井優だ。そう言われてみないと気づかないほど、2人の桃子はシンクロしている。ちなみに蒼井優は、実際に現場で声を当てたのだという。カメラに照明、監督にスクリプター……、そして俳優たち。セットの戸建ての小さな居間に、まさに“うるさいほど”の人数がひしめき合っていたと思うとほほえましい。

 1人の時間を長く過ごしてきた表現の1つに、桃子さんがモーラステープ(湿布薬)を上手に腰に貼る様子が描かれる。湿布を背中や腰に一人で貼るのはとても難しい。沖田監督はそれを「もはや名人芸」と脚本に書いたのだそう。受けた田中裕子は、モーラステープを自宅に持ち帰って練習を重ねた。可笑しくも見事に仕上がったこのシーンは、ぜひ見逃さないでほしい。

 物語は、ラストまで大きな展開を見せるわけではないが、桃子さんは彼女なりの新たなる世界を見つけ出し、いわゆる“孤独”から抜け出す。桃子さんは、自分にこう言い聞かせる。夫・周造の死は、独りで生きてみたかった桃子への「計らい」なのだと。だから、周造が死んでからの自分が一番“輝いて”いなければいけないと思っている。

 これは、周造の死を受け入れるための方便ではあるが、自分の手で選択し、生きてみたいと思っていたのも事実。青春映画なら、ここから第2章が始まるのだが、本作はそこまで大きくは動かない。でも、桃子さんの一歩は今までとは違う。

 そういう微妙な喜びを表現する田中裕子のうまさよ。佇まいと呟きで、どんな荒唐無稽な設定も、直接、脳内に響かせて納得させる。だから、彼女を孤独な時間を過ごしてきた年寄りだと錯覚してしまう。もちろん実生活は違うのに。

 これまで共演者の多くが、その田中裕子の演技を間近に見たくてオファーを受けたと語った。本作でも、濱田、青木、宮藤、東出、そして蒼井までもが、田中裕子との共演に「幸せな時間を過ごした」とコメントしている。田中裕子には、岩手弁で「私は私の道をいく」を意味する、「おらいぐもひとりでいぐも」という台詞が、本当によく似合う。


『おらおらでひとりいぐも』2020年11月6日(金)公開 配給:アスミック・エース (c) 2020「おらおらでひとりいぐも」製作委員会

(関口 裕子)

関口 裕子(せきぐち・ゆうこ)

映画ジャーナリスト。「キネマ旬報」取締役編集長、米エンターテインメントビジネス紙「VARIETY」の日本版「バラエティ・ジャパン」編集長などを歴任。現在はフリーランス。