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仙台に残った夫を思うと涙が止まらなかった…Jリーガー妻が語る3.11のその後【#あれから私は】
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2011年3月11日、東北地方を中心に大きな被害をもたらした東日本大震災から10年。あの時、何をしていたか――多くの人が振り返っているのではないでしょうか。当時、ベガルタ仙台に所属していたJリーガー・中島裕希選手(現町田ゼルビア)の妻、沙矢香さんのインタビュー後編をお届けします。夫を仙台に残し、離れ離れの生活を余儀なくされたという沙矢香さん。被災地と実家のギャップに戸惑いを感じていたとも。涙に暮れた日もありましたが、それでも前を向くことができた理由とは。
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関東では“普通の日常”が紡がれていることに、驚いた
実家のある横浜に避難をしてから、私は毎日泣いていました。何より、ショックだったんです。東北と関東では、あまりにも生活が違うことが。もちろん、関東も大きな地震があり、大変な思いをされた方がたくさんいらっしゃると思います。
だけど……ここでは、当たり前のようにみんながお風呂に入って、ごはんを食べられている。そんな当たり前な生活を送っていると、仙台に残っている夫や東北に住む方々がどのように過ごしているのか案じられて、涙が止まりませんでした。
夫は結局、一軒家に住んでいたチームメイトの家にみんなで集まって寒さをしのぎ、3日ほど過ごしたそうです。そこでやっとチームから解散指示が出て、それぞれ避難することができました。
ガソリンが残っていた車に乗り合わせて移動し、途中からは新幹線に乗って。そうして私が避難していた横浜までやってくることができたのですが、再会した夫は、たった数日会えなかっただけなのに、もうすごい状態! シャワーはもちろん、顔も洗えないような状況だったので、髪の毛なんてパスタみたいになっていました。会えたうれしさや感動も相まって、泣き笑いの再会になりました。
「いつ開幕してもいいように」とトレーニングする姿に覚悟が決まった
仙台を離れてから、私の実家や夫の実家のある富山県で、確か3週間ほど避難生活をしていたと思います。そんな中でも、夫は「いつ開幕してもいいように、体を作っておかなきゃいけないから」と、1人でトレーニングをしていました。
「チームのみんなに会いたいし、監督の指示を待ちたい。サッカーがしたい」
そう言って、近所の公園を走ったり、家で筋トレをしていたり。とにかく、早く仙台に戻りたいようでした。私としては正直、こんな状況で仙台に戻るのは不安で仕方なかったのですが……。
ただひたすらトレーニングに励む夫を見ていたら徐々に、「私も覚悟を決めて、一緒に戦わなきゃ」と考えるように。そして、彼のためにできることをいろいろと考えたのですが、食事面でのサポートくらいしかなくて。せめてそれだけは! と、食事作りには、かなり真剣に取り組みました。
チームの方は、クラブハウスも潰れてしまっていたし、もちろん練習どころではない状況。だけど、私たちは仙台に戻ることを決めたんです。
まず住んでいたマンションへ行ってみると、当時のままですから、部屋はぐちゃぐちゃの状態。特に、倒れた冷蔵庫から出ていた食品はすべて腐っていて、ひどいありさまでした。
「掃除するのを手伝うよ」と、姉夫婦も一緒についてきてくれていたものの、まだ水道が止まっていたので、掃除もままならなくて。
「1か月近く経っても、水道が止まったままだったなんて……」
改めて被害の大きさを実感し、ショックを受けました。