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仙台で被災したJリーガー「あと30分違っていたら…」 妻が語る3.11【#これから私は】
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何度も襲う余震 速報のアラームに脅かされる時間
当時はマンションの1階に住んでいたためか、揺れは大きかったのですが棚から物が落ちたりすることはなく、比較的安全に過ごすことができました。上の階にお住まいの方に後から聞いたら、食器棚の中のお皿がすべて落ちて割れてしまったりしたようです。
ただ、何度も何度も襲ってくる余震には家族そろってビクビク。特に長女は鳴り響く緊急地震速報のアラームを怖がってしまい、泣くまではいかなかったのですが怯えていました。
夫もチームの方と連絡を取ろうとしていましたが、とにかく電話がつながらなくて。着信があって出ようとしても通話がまるでできないという状態が長く続いたように思います。なので、周囲がどうなっているのかはほぼ分からずじまい。千葉に住んでいる夫の両親もずいぶんと心配してくれていたようですが、やっと電話がつながったのは震災翌日の早朝でした。
お義母さんは働いている職場の方から仙台市沿岸部の津波被害を聞いたらしく、とても心配してくれていたようです。お義父さんも電話がつながり、家族が無事であることを知って、安心してくれたようでした。当たり前につながるはずの電話がつながらなくなる。こういうところも災害の怖さですね。
そういえば夫は当時、チームが解散した後も実家のある千葉には帰らず、周囲の人に「僕は仙台の女性と結婚したんだから、帰る場所はここだ」というようなことを言っていたらしいのですが、「え? そんなこと言ってたんだ?」って感じです(笑)。夫いわく「そういうのは、外に向かって言う言葉だから」だそうですが(笑)。それでも、私の家族がいる宮城県に残る決意をしてくれたのは本当にうれしかったです。
実家に疎開したものの、続く停電の中、サバイバル生活に
私の実家は宮城県の山間部にあったため、「仙台より少しは安全では?」とのことで、その後に家族揃って身を寄せることにしました。両親の顔を見た時は、心底ホッとしましたね。とはいえ、宮城県の多くの地域が停電中。母が機転を利かせて、冷凍庫の中の食材を発泡スチロールに詰めて庭に積もった雪の中に入れていたんです。「母親ってすごいんだなぁ」と思ったことを覚えています。
庭にかまどを作って煮炊きもしました。かなりサバイバルな状態でしたが、兼業農家だったのでお米や野菜だけは手に入ったんです。また、近所で自家発電の設備を持っていらっしゃる方がいたので、お米を持っていって炊いてもらって、おにぎりにして備えておきました。何はともあれ、食べ物に苦労せずに済んだのは、不幸中の幸いだったと思います。
ただ、大変だったのはやはり衛生用品。子どもがまだ小さかったので、おむつが必要になったのですが、なかなか手に入らなくて。ママ友から情報をもらっては探しにいくのですが、情報が回ってきた頃にはもう売り切れていたり。衛生用品は少し多めに用意しておくべきですね。
それと、さっき少し話しましたが、夫の実家がある千葉へ行く選択肢もあったんです。でも、夫が「まだ子どもが小さいのだから、危険を冒してまで千葉に戻るよりはこちらにいた方がいいのでは?」と言ってくれ、宮城県に残ることを決断しました。どうやら夫自身、千葉に行く方法が考えられなかったようです。何しろガソリンもないし、道がどこまでつながっているかも分からない状態だったので。
ガソリンがない、というのは、車社会の田舎ではかなり厳しい……というか、死活問題であることもこの震災で分かりました。夫が朝から行列に並んで、途中で交代して何とかガソリンが買えるというような状態だったので。
当たり前が、当たり前じゃなくなる。これが「災害」なんですね。
<続く>
(和栗 恵)