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美馬アンナさんと元「義足の球児」が対談 甲子園出場の裏で感じていた葛藤とは
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対談シリーズ第4回 今治西高OB・曽我健太さんに聞く甲子園への道
2019年に第1子となる男の子「ミニっち」を授かった、女優・タレントの美馬アンナさん。生まれてきた我が子に先天性欠損症のため右手首から先がなかったことをきっかけに、障害を持つ子どもの家族が意見交換や情報共有できる場所を作りたいと願うようになりました。
また、プロ野球の千葉ロッテマリーンズで活躍する美馬学(みま・まなぶ)投手を夫に持つことから、健常者と障害者をつなぐきっかけとして野球やスポーツを生かせる形を模索中。さまざまなジャンルの方との対談を通じ、活動のヒントや学びを得ています。
お届けしている対談シリーズでは、義足を使いながら甲子園に出場した愛媛県立今治西高等学校(今治西)の野球部OB、曽我健太さんが登場。今回の中編では父への感謝や全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)出場の裏で感じた葛藤などを話していただきました。
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小学校の時は悪ガキ 家族から「特別扱いされたことはない」
司会:5歳から義足を使われている曽我さんですが、ご家庭ではどのように育てられてきましたか。
曽我健太さん(以下曽我):「義足だからかわいそう」と特別扱いされたことはなくて、普通の子どもと同じように育てられたと思います。両親はどちらかと言えば「甘えるな」という感じでした。
学校の先生にも「悪いことをしたら、いくらでも叱ってください」と言っていましたし、家でも思いきり怒られていました。小学生の時は悪ガキだったので、先生と親の面談の後はいつもビクビクして家に帰っていましたね(笑)。
美馬アンナさん(以下アンナ):元気でいいですね(笑)。伸び伸びと育てられたおかげで野球などのスポーツに挑戦でき、自信を得たりしたのかも。
曽我:そうですね。本当に伸び伸びと育てられたと思います。僕が小学3年生で野球を始めると、父は「野球をやるからには!」と仕事が終わるとすぐに家に帰ってきて、毎日夕方2人で練習をしてくれました。
今、僕が同じ父親の立場になって思うのは、毎日あそこまで練習に付き合ってくれたのはすごいなと。毎日毎日付き合うなんて、親であってもなかなかできることじゃない。今となっては本当に感謝しています。
アンナ:お父さんも野球をやってくれることがうれしかったんでしょうね。子どもには見せないけれど、やっぱり心配や不安もあったと思います。だから、子どもが一生懸命に目をキラキラ輝かせながらやっている姿に協力したかったというか、とにかくうれしかったんでしょうね。
球児としての試合出場は「自分の実力で勝ち取ったという思い」
アンナ:曽我さんが甲子園を目指そうと思ったのは、いつ頃だったのですか。
曽我:中学に入学した頃です。
司会:進学された今治西は甲子園に何度も出場している野球の強豪校ですが、公立の進学校でもありますね。
曽我:そうですね。私立のようにスポーツ推薦枠がたくさんあるわけではなかったので、親には「勉強もしっかりしないと今治西にはいけない」と言われていました。なので、勉強もちょっと気合を入れて、文武両道と言ったら言いすぎかもしれませんが頑張りました。
アンナ:すごいですね。実際に今治西に入学された後、高校での野球は中学までの野球とは違いましたか。
曽我:まったく違いました。僕は小学校は少年野球、中学は部活動で軟式野球しかやっていませんでしたが、他の中学から来た子の中にはボーイズリーグのチームで硬式野球をみっちりやってきた子も多かったですね。あとは練習時間の長さと先輩後輩関係の厳しさ。こういった慣れないこともあって、入部した初日から圧倒的に疲れました(笑)。
司会:今治西を率いていた宇佐美秀文監督(現・愛媛県立小松高等学校監督)が当時、曽我さんについて「義足だから、障害者だからと特別扱いはしないし、本人もそう望んでいる」といった趣旨のお話をなさっていました。
曽我:はい。宇佐美監督がおっしゃられた「特別扱いをしない」というのは、チームとして勝利を目標にやっている以上、僕が「自分には障害があるから」とか「特別扱いしてほしい」とか思っていたら試合では使えないということです。
それはそうだろうと思います。僕を特別扱いして試合で使えば他の選手に失礼だし、僕も特別扱いされているから試合で使ってもらっていると思われるのも嫌ですから。試合には出場させてもらいましたが、自分の実力で勝ち取ったという思いでいます。
アンナ:勝つための戦力として、曽我さんが必要だったということですよね。
曽我:そこはチームメートからも認めてもらっていたんじゃないかと思っていますね。