Hint-Pot | ヒントポット ―くらしがきらめく ヒントのギフト―

仕事・人生

美馬アンナさんと元「義足の球児」が対談 甲子園出場の裏で感じていた葛藤とは

公開日:  /  更新日:

著者:Hint-Pot編集部・佐藤 直子

オンラインで対談した美馬アンナさんに義足を見せる元甲子園球児の曽我健太さん【写真:Hint-Pot編集部】
オンラインで対談した美馬アンナさんに義足を見せる元甲子園球児の曽我健太さん【写真:Hint-Pot編集部】

「義足の球児」として注目集め…メディアの取材に葛藤も

司会:3年生だった2003年夏に甲子園出場を果たすと「義足の三塁手」として大きく注目されました。実力でレギュラーを獲得したのに、「義足」という点が一人歩きしてしまい、葛藤のような思いもあったのでは。

曽我:それはありましたね。最初は2年生の時、夏の県予選で投手として初めて公式戦で投げて1勝したことが少し記事になったんです。すると、その年の秋の大会が始まる頃から、春の甲子園に向けた密着取材があって。結局、春は甲子園には行けなかったので大きな話にはなりませんでしたが、次は夏の甲子園に向けて地元のテレビ局が密着取材することになりました。

最初は嫌だったんですよ。みんなで練習している中で、カメラが僕1人を追うことに周りはどう思うのか。見方を変えたら、練習の邪魔にもなる。なので、担当の方に「今は撮らないでください」とか言わせていただきながら、徐々に関係を築いていきました。最終的に運良く甲子園に行くことができて、その時は取材クルーの方も喜んでくれました。

ただ、そこから他のメディアの方も一気に取材に来るようになったんです。長く取材してくださった方にたくさん取り上げていただくのは分かるのですが、僕のことをよく知らない方々が少し話を盛って書いたり、言っていないことを書いたり、視聴者受けするように編集したりするのがすごく嫌でした。

甲子園に行ってからは、みんなが練習を終えて宿舎に帰りシャワーを浴びて食事をとる中、僕だけグラウンドに残って取材対応だったので、みんなと一緒に行動できなくて。取材ではなかなか嫌なことや答えづらいことも聞かれました。

アンナ:メディアは容赦ない時がありますから、高校生には酷でしたね。

曽我:今になってから「もっとうまく対応ができたかもしれない」と思いますが、当時は明らかに嫌な顔をして取材を受けていました。その辺は失礼だったなと思います。ですが、高校生の僕には無理でしたね。

アンナ:曽我さんの頑張りが多くの人の心を掴んだから、メディアで取り上げられたんだと思いますが、大人が配慮するべき部分もあったでしょうね。ただ、メディアで発信されたことで、同じような状況の方からの声も届いたのではないですか。

曽我:甲子園に出場した直後は、学校にたくさん手紙が届きました。すべて目を通させてもらった中には、同じような境遇の子どもを持つ親御さんからの手紙もたくさんありました。

アンナ:曽我さんの存在が、そういった親御さんにすごく大きな希望を与えたんだと思います。

曽我:そうだったんですかね。

野球を嫌いになりかけたことは1度 それでも野球の存在で今がある

司会:甲子園では1回戦は日大東北に6対0で勝利し、2回戦で倉敷工に3対4で惜敗。その後、龍谷大学に進んで硬式野球を続け、就職後は大津市役所(滋賀県)の軟式野球部でプレーなさっています。野球をずっと続けてきたのは、やはり野球が好きだからでしょうか。

曽我:野球に対する考え方は、その年々でいろいろ思うところがあります。元々、子どもの頃は「人に認めてもらうために頑張ろう」という気持ちでやっていました。でも、この年になってみると、野球をしていたことでいろいろな人とつながることができて、今がある。そう強く思いますね。

アンナ:曽我さんにとって野球は自信を与えてくれたり、出会いを与えてくれたり、なくてはならないものだったのかもしれませんね。そんな野球を嫌いになったことはありますか。

曽我:嫌いになったことはありませんが、苦しかったことはあります。嫌いになりかけたことは1度だけ、大学時代に肘の手術を受けた時です。僕は小学生から高校2年の秋まで、ずっとピッチャーをやっていました。高校2年の秋の大会でヘマをして野手に転向し、大学でも野手がメイン。

でも、僕が野球で一番好きなのは投げることで、一番自信を持っていたことでもあります。だから、肘を故障して手術を受けたら、今度は肩が痛くなってうまく投げられなくなり、少し気持ちが切れかけました。

アンナ:私の夫は肘や腕を6回も手術して、そのたびに心が折れているようです。いつもどこから這い上がってくるのか分からないですけど(笑)、今年も元気に投げさせてもらっています。

曽我:怪我をしてしまうと、記憶にある自分の一番いい時と同じようにできず、自信をなくしてしまうんですよね。

アンナ:野球と真剣に向き合った人たちが共有できる想いもありますよね。今度ぜひ、夫とも話をして下さい!

<後編に続く>

◇曽我健太(そが・けんた)
1985年、愛媛県生まれ。5歳の時にミカンを運ぶトロッコの車輪に左足をはさまれ、足首から先を失う怪我を負い、義足を使い始める。小学3年生から軟式野球を始め、主に投手として活躍。強豪・愛媛県立今治西高等学校への進学後は投手兼内野手としてプレーしたが、2年秋から三塁手に本格転向。3年生だった2003年夏に県予選で打率.571と打線を牽引し、全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)に出場した。好守も高く評価されたが、チームは惜しくも2回戦敗退。卒業後は龍谷大学に進学し、現在は滋賀県の大津市役所に勤務。

(Hint-Pot編集部・佐藤 直子)