カルチャー
『ドライブ・マイ・カー』で注目の三浦透子 子役時代から「この仕事が当たり前の人生」
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映画業界の女性たちにスポットを当て、これまでの人生やその仕事を選んだ理由など、「わたし流」の仕事と生き方を掘り下げるインタビューシリーズ。今回は俳優の三浦透子さんです。現在24歳の三浦さんは、7月のカンヌ国際映画祭で日本映画初の脚本賞を含む4冠を達成した濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』で世界の注目を集めました。5歳でのCMデビュー後、子役からキャリアを重ねてきた三浦さんにとって、“演じる”という仕事の実際はどのようなものなのでしょう。聞き手は映画ジャーナリストの関口裕子さんです。
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「自分はどういう人間なのか」 考えざるを得ない仕事を始めて
カンヌ国際映画祭で脚本賞他4部門に輝いた『ドライブ・マイ・カー』で、演出家・家福悠介(西島秀俊)のドライバー・渡利みさきを演じた三浦透子。愛する妻を失った家福は愛車で広島の演劇祭に向かい、そこでプロドライバーのみさきに運転を任せた。そうして仕事への行き帰りに車中で得た信頼が、深い傷を抱えた2人を再生への旅へと送り出す物語だ。子役からキャリアを始めた彼女に、子役時代や本作を通じて「仕事」のとらえ方について聞いた。
――お仕事を始められたのは5歳の時、「なっちゃん」のCMでしたよね? ご自身でオーディションを受けたいとおっしゃったんですか?
いえ。かといって、母の意思ということでもなくて。当時、地元のダンススクールに通っていたんですが、そこの友達と何となく流れで受けました(笑)。「なっちゃん」は全国でオーディションを開催していたので、一般人でも受けられたんです。
――自信のほどは?
全然(笑)。選ばれると思ってなかったですし、オーディションが何かもよく分かっていなくて。特技の欄に母が「歌」って書いてくれたらしいんですけど、「歌ってください」と言われた時に「嫌です」って答えたんです。家に帰って母に「ちょっとくらい歌ってくれば良かったのに」と言われました(笑)。だから「受かるわけがない」と思っていました。選ばれたのは、そんな風によく分かっていない感じが良かったのかもしれません。
――いずれにしてもそこが今のお仕事の原点になるわけですね。いつ頃から「仕事」だと意識されましたか?
始めたのが早かったので、このお仕事は“やるのが当たり前のもの”になっていました。出身地の北海道には子どもの頃からお仕事している人なんてほとんどいないし、「なっちゃん」は大きな仕事だったので、周りからも私を“そういう仕事をしている子”として受け入れられていたので、正直なところ、何の疑問を持つことなく続けていたんです。
それが急に怖くなったのは、そうした仕事に対して「やりたい」とものすごく意欲を持って挑戦する子たちに出会った頃です。
――いつ頃ですか?
中学の頃です。東京の学校に転校したこともあって、同世代の仕事をしている人たちと関わることが増えて。そこで「どうしてもやりたい。だからやる」と、強い意志を持って挑戦する人たちに出会ったんです。それで初めて「私はどうなんだろう? この仕事を本当にやりたいのか」と考えた。それまでそんなこと一度も考えたことがなかったのに。
――進路を決めなければいけない時期ですね。
高校への進学とか、大学受験とか、「何をやりたいか」考えなきゃいけない時ですね。私も芸能を続けていくなら芸能コースのあるところにするとか、大学進学を前提とした学校へ行くとか、そういうことは考えました。決意を持ってこの世界に入ってきた子たちの心の強さや、エネルギーをうらやましく思うこともありましたが、私は私でそういった子たちにはない経験をさせてもらっている。私を受け入れてやっていくしかないなと思いました。
先のことではなく、明日何やりたいかを考えようと思うようになって気持ちがすっきりしました。そうシンプルに考えてみたら「映画をやりたいな」と気付いて。高校に進学してすぐのタイミングで今の事務所に入りました。
――『私たちのハァハァ』(2015)や『月子』(2017)など、映画の仕事は三浦さんにすごく合っているように思いました。それでも大学へ行こうと思ったきっかけは? 「数学は言語でも哲学でもある」との理由で、数学を専攻したと伺いました。
この仕事が当たり前である人生を歩んできてしまったので、そうじゃない世界を知りたかったんです。いや、知る時間を作らなくちゃと思ったというか。だから高校も一般の高校でしたし、大学にも行こうと思いました。
――10代の頃から自分の人生を客観的にご覧になっていたんですね。
「客観性が必要な仕事」ということかもしれません。いや、違うな。オーディションの時にいつも「自己紹介してください」って言われるんですよ。その度に「自分はどういう人間なのか考えざるを得なかったから」なのかもしれません。子どもにとっていいことだったのかは分かりませんけど、今はそんな自分の人生を肯定できています。