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夫と死別した女性が60代で移住を決意 瀬戸内の小島で見つけた第2の人生の過ごし方

公開日:  /  更新日:

著者:中野 裕子

東京には20年以上在住 「自分の街と思ったことなかった」

 中島は松山からフェリーで約1時間、高速船なら約30分の所に浮かぶ、1周約22キロの小さな島。名産のミカンと全国的に有名なトライアスロン大会で知られるが、過疎化と高齢化が進み移住促進にも力を入れている島だ。

 多香子さんは島の玄関口がある東側とは反対側、西側にある宇和間(うわま)という地区で一人暮らしをしている。

「最初は移住しようという考えではなく、夏に過ごす別荘として夫が5年前にこの家をプレゼントしてくれたんです。当時、私は米国人の夫と東京で暮らしていました。海が好きだったので大分・国東半島のマリーナにヨットを停泊させ、夏になるとそのヨットに乗って伊予灘に遊びに来ていたんです」

 ところが、別荘購入1年後に夫が急死。子どもがおらず1人残された多香子さんは、東京より中島で暮らすことを選んだのだという。

「東京には20年以上住んでいましたが、“自分の街”と思ったことが一度もありませんでした。海が見えないし、空は狭いし、みんないつも忙しく、美しい自然を楽しむ余裕などなく暮らしていますよね。夫が東京にある大学の教授だったので、夫が存命中は東京を離れるわけにいきませんでした。けれども、私はフリーで英語の通訳・翻訳の仕事をしていたので、東京に縛られる必要がなかったのです」

多香子さんの夫が気に入っていた路地の風景【写真:中野裕子】
多香子さんの夫が気に入っていた路地の風景【写真:中野裕子】

 多香子さんが松山の出身だったことも大きかっただろう。小学校に臨海学校で中島に来たことがあり、キャンプファイヤーなどを楽しんだ記憶があった。学校を卒業後、欧米で暮らし、欧州で夫と知り合い結婚。1992年に夫を連れて帰国し、97年から東京で暮らしていた。父親の死が中島と“再会”するきっかけになった。

「9年前に父が亡くなり、納骨で松山に帰省した時、姉夫婦と足を伸ばして久々に中島を訪れたんです。そうしたら、夫がとても気に入って。それからヨットで遊びに来ながら、別荘を探していました。子どもの頃の思い出の島に暮らすようになるなんて、不思議な巡り合わせだと感じています」

 島の中で便利な東側は「松山とあまり変わらない」という夫の意見があったため、別荘は東側以外の地区で探した。縁あって購入に至った宇和間の古家は、中庭を囲んで母屋や離れがある大きな家。浜に向かう細い路地や焼杉板で建てられた家並みの景観に、夫は「とても美しい!」と惚れ込んでいたという。

 しかし、家の中には、何と先の住人が毎日手を合わせていたであろう大きな仏壇がそのまま残されている。抵抗感はなかったのだろうか。

「私たちはキリスト教徒だから気にならない、ということもありますけど、夫に言わせると仏壇は“美術工芸品”なんですって。『ミニ日光東照宮だ』って。そう言われると、そうとも思えますね(笑)。

 大きな家での1人暮らしの不安? ありません。病気だってそれなりにありますけど、病気を治すために生きているわけじゃありませんし、何か起こったらその時に対処すればいい。最初のうちは怖さがありました。でも、夫が亡くなった今も、魂は私と一緒にここにいて守ってくれていると思ったら怖くなくなりました」

 買い物はコープ(生協)やネット通販があれば事足りる。本は図書館で借りられる。仕事はリタイア。日中、中庭でミニトマトやレタスを栽培したり、散歩したり、絵を描いたりして気ままに過ごしているという。

「食事は胃袋に合わせて、お腹が空いたら食べる(笑)。島にコンビニはないので、お惣菜は手作りしなければならないし、もしも急に甘いお菓子が食べたくなったら、それも自分で作らなくてはいけません。近所の方たちから野菜や魚、果物をたくさんいただくので、大切にいただいて保存食のピクルスやザワークラウトを作ったりもして、結構忙しいんですよ(笑)。

 でも、そういう丁寧な暮らしが気に入っています。お金はあまり使いませんね。『しばらくお財布を見てないなあ』ということがよくあって、月の生活費は5万円ぐらいじゃないかしら」