きっかけは一人娘の言葉　沈む夕日に息を飲んだ地元・日田の壮大な美しさ

　一人娘が成人を迎えた日、東京・恵比寿のホテルで食事をしていると、娘から「ママに話がある」と切り出されました。

「今まで育ててくれてありがとう。ママは、ママの人生を歩んでいいと思っている。今、故郷に帰らなかったら、きっと一生後悔すると思うよ」

　子育てとは人格を育てる大切な役割だと考え、娘と向き合ってきた20年間。「それは間違っていなかった」と感じた井上さんは、娘からの言葉が素直にうれしかったそうです。そこで夫に「あの時の約束はどうなりましたか？」と改めて聞いてみることに。夫はしばらく沈黙した後、「ごめん。あの時の気持ちはもうなくなっている。今では部下もたくさんいるし、この仕事を全うしたいと思っている」と返答しました。

「家を継ぐために生まれてきた」と思っていた井上さんは、夫婦間での話し合いを経て「日田に帰りたい。自分が後を継ぐ」と離婚を選択。2014年、約30年ぶりに地元・日田に帰郷したのです。

　しかし井上さんは「人生、何が起こるかなんて分からない。まさか自分が酒を造るなんて思ってもみなかったから」と笑い飛ばします。

「故郷に帰って、三隈川に沈む夕日に息をのみました。すごく見惚れてしまって、長時間眺めていたと思います。『何て美しいのだろう』って。雨上がりの山々や三角形の杉が水墨画みたいで本当に美しくて、『故郷ってこんなに美しかった？』と改めて思いました。

　同級生たちも“帰ってきてくれてありがとうの会”を開いてくれて……何十年も不義理にしていた私を温かく迎えてくれて、故郷は美しくて温かいということを知ったのです。いったん離れたからかもしれませんが、『ここで生まれ育って良かった、ここで命を受けて本当に良かった』と思いました」

　帰ってきてからは、井上酒造の一社員として酒造りに関わる現場を一から学びました。焼酎、清酒、詰口、営業、事務……すべてを頭と体に叩き込む日々。清酒製造に関しては当時、東京都北区（現在は広島県に移転）にあった独立行政法人「酒類総合研究所」で研修生になり、「受験勉強よりも勉強しました」と語るほど没頭しました。