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「辞めるなら今しか」 有名企業を退職してプロ映画監督に 安田真奈監督のタフな経歴

公開日:  /  更新日:

著者:関口 裕子

社会人2年目、独力でたどり着いた映画監督への門

 本気で映画監督になりたいなあと思ったのは、『わっつ・ごーいん・おん?』(1994)という作品が東京の「あきる野映画祭」(19年終了)でグランプリと観客審査員賞をいただいたのがきっかけです。今関あきよし監督に「技術的には稚拙だけれども心に響くものがある」と言っていただいたのと、まったく知らない観客の方々の投票で1位になったのが、撮り続ける決意につながりました。

 社会人2年目の時でしたが、それを皮切りにいろいろな映画祭に作品を送っては参加してを繰り返しました。グランプリを立て続けにもらった頃は親も、特に「道楽も大概に!」と言っていた母親が、だんだん「おお! おめでとう」みたいになっていって。とはいえ、今みたいにデジタルカメラが普及しているわけでもなく、お金がないと映画を撮れない時代。なので、「仕事は辞められない」とずっと思っていました。

 映画祭で手裏剣のように名刺を配って、刺さった方にプロフィールをお渡して、後日改めてプロデューサーなど製作関係の方を訪ねて……。「いつか映像の仕事を始めた時は、ぜひよろしくお願いします」と、ちょっとずつ種を蒔く気持ちで、人脈を広げていきました。

会社を辞めてプロの映画監督へ

 完全なるアマチュアから少し脱却した手応えを感じたのは、関西テレビ製作で劇場公開もされた『オーライ』(2000)です。翌年も同局で『ひとしずくの魔法』(2001)を撮らせていただきました。

 この2作品を機に、いろいろなところから「一緒に企画やらへん?」「脚本、書いて」と声をかけていただく機会が増えました。そうなると、さすがに会社とは両立できない。稼ぎのことは不安でしたが……今も稼ぎはありませんが、とにかく「辞めるなら今しかない」と思ったわけです。

 実は会社に映画を撮っていることを特に報告していななかったんです。「あいつ映画を撮っているから仕事がダメなんだ」と思われたら嫌なので。『オーライ』が劇場で公開され、メディアにインタビューなどが掲載されたことで、会社の方々が知るようになりました。「安田さん、仕事大好き人間だと思ってたけど、映画も撮ってたの?」と驚かれました。

 残業も出張もある仕事だったので、やっぱり両立は大変でした。夜中や土日に映画の作業をしたり、日曜に撮影してそのまま月曜日に出社したりして、辻褄を合わせていました。眠るのは電車の中。足をクロスして力を入れると転ばないという、立って寝る技を身につけました(笑)。

 所属は販促部門で、仕事はけっこう好きでした。どんなこともやり始めると熱くなるタイプですし、上司にも恵まれていたので。「長く勤めると仕事の責任も重くなるし、部下ができたら辞めづらくなる、そろそろ両立は無理だな」と思い、9年半勤めた時点で退職。「辞めんとき」と引き留めていただいたりしました。今もたくさんの方と交流が続いていて、映画が公開されると劇場にお越しいただいたりしています。