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瀬戸内寂聴さんの“走り続けた人生” ドキュメンタリー映画が与える大いなるエネルギー

公開日:  /  更新日:

著者:関口 裕子

「小説を書くことはある種の懺悔でもあった」

 瀬戸内さんは、研究者だった夫と20歳で見合い結婚をし、女の子を出産。戦中の1943年から夫の任地である中国の北京で過ごし、終戦とともに実家のある徳島に引き揚げている。

 しかしその後、夫の教え子と不倫関係となり、子どもと夫を置いて家出。駆け落ちは成就せず、1人で生きる道を模索して、少女小説の作家となり頭角を現していく。恋多き作家として浮名を流すが、最後の恋人といわれた作家の井上光晴(1992年5月30日逝去)にも家庭があった。

(c)2022「瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと」製作委員会
(c)2022「瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと」製作委員会

 瀬戸内さんは中村監督との会話の中であけすけに「性愛を断ち切るために出家を選んだ」のだと語る。不道徳的な行いと知りながら、恋愛に走れることができたのは小説家だったからでもあるのだろう。「愛することが小説を書く原動力だった。そして小説を書くことはある種の懺悔でもあった」と語っている。

 瀬戸内さんの小説「かの子繚乱」(講談社刊)は、岡本太郎の両親、一平とかの子の物語。放蕩を尽くす一平のために神経衰弱になったかの子は、彼女を崇拝する大学生を家に住まわせ、太郎も含め4人で暮らすようになる。

 夫と恋人、子どもとの共同生活は、瀬戸内さん自身の実体験とも重なる。まるで自分の羽を抜いて機(はた)に織り込む鶴の恩返しのよう。身を削るような執筆の仕方に、初めて読んだ時は戦慄した。

 そんな瀬戸内さんにとって一生で一番大変だったことを中村監督が問うと、「出家したこと」だという。一通りの苦労は経験してきただろう瀬戸内さんにとっても“出家”はつらいのだ。法話で「尼さんになりたい」という女性の言葉を言下に否定したのは無理もない。

仏門に身を投じたのは誰のため? “時間をかけて”僧侶になった瀬戸内さん

 瀬戸内さんは出家後も手を休めることなく執筆を続け、ご本人いわく出版点数は「約400冊」。傷口をえぐるような小説が多いのは、それこそ自らの罪と向き合ったからなのだろうか。実の娘さんが、そんな瀬戸内さんに元夫の墓参を許したのは晩年になってから。映画では墓参する姿も描かれる。

 瀬戸内さんは当初、自分のために出家したのだと思う。「恋愛は落雷と同じ。避雷針があってもダメ。恋愛からは逃れられない。それでも恋愛の雷には打たれないより打たれた方がいい」という状況から身を離すには、仏門に入るしかない。以降、自分に与えた戒律は「破っていない」と瀬戸内さんはいう。「誰も信じていないみたいだけど」。

 自分のために仏門に身を投じたわけだが、そこにはいつしか信仰を求める者が集まり始めた。飾らず、分かりやすい言葉を使った説法は大人気となり、心の平安を求める人々が羽を休める場所となったのだ。

 そうなると出家生活はもう自分のものではなくなり、僧侶としての務めは最優先事項となる。自然災害や戦争、矛盾をはらむ政治にも駆り出されるようになり、病を押して、車椅子で駆け付けることもあった。

 弁の立つ作家ではあったが、時に失言をし、それに足をすくわれることも。それでも瀬戸内さんを慕う人のために尽力した。どこかの段階で、彼女の中で作家より僧侶の比重の方が高まったのだ。入口は自分のためだったかもしれないが、瀬戸内さんはたぶん時間をかけて僧侶となった。