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仕事・人生

元トップスター稔 幸さんを宝塚にとどまらせた同期の言葉 大切にした絆の重み

著者:Hint-Pot編集部・瀬谷 宏

インタビュアー:竹山 マユミ

宝塚トップスターの思い出を語った稔さん【写真:荒川祐史】
宝塚トップスターの思い出を語った稔さん【写真:荒川祐史】

 同期から男役4人、娘役1人のトップスターが生まれ、宝塚歌劇団の歴史の中で燦然と輝く「華の71期生」。その中で新人時代から抜群の存在感を見せていた元星組男役トップスターの稔 幸さんは、何度もくじけそうになったと語ります。宝塚の世界をOGたちの視点からクローズアップする「Spirit of タカラヅカ」、今回は稔 幸さんの第2回。揺れ動く感情の中で支えになった同期との絆についてなど、フリーアナウンサーの竹山マユミさんがお話を伺いました。

 ◇ ◇ ◇

新人公演の主役に抜擢されて身についた責任感

竹山マユミさん(以下竹山):宝塚音楽学校を卒業して初舞台後は星組に配属され、大きな役がつくようになってからは、それまでと違う責任感や緊張感が生まれてきたと思います。そういったものを意識するようになったのはいつ頃からだったのでしょうか。

稔 幸さん(以下稔):新人公演で初主役をいただいた時ですね。そして、その前に宝塚としては30年ぶりとなった1989年の米ニューヨーク公演のメンバーにも選ばれました。実は私、宝塚の試験に落ちたらニューヨークに留学しようと思っていたんです。宝塚のメンバーとして憧れのニューヨークに行くことができるなんて、「何かもう(宝塚を)辞めてもいいな」というくらい幸せでした。

 それが終わり、日本に帰ってきてからは星組がやっていた「ベルサイユのばら」の東京公演に参加しました。でも、昔の「ベルばら」も知らずに宝塚に入った私ですから、あの世界になかなか入れなかったんですね。気持ちがニューヨークに行ってしまっていたというのもあって。だからその時に「私、宝塚無理かも」と思いました。やりきった感もありましたし、プロデューサーには「次、主役になれなかったら私、辞めますね」って言っていたんです。

竹山:その時は何て言われたのですか。

:「へぇ~」みたいな感じだったから、受け入れられたと思っていたんです。その次の公演は「メイフラワー」でした。新人公演の発表は当時、本公演の配役発表から大抵2週間後くらいに行われていたのですが、その時は本公演と新人公演の発表が同時。すると新人公演の配役では私の名前が最初にあって「私、辞められないじゃない」って。

竹山:「辞めさせてなるものか」という皆さんの思いがすごく詰まった発表だったのでは。

:「辞められないじゃないですか」と当時の小林公一プロデューサーに言ったら、「頑張るしかないやろ」って返されました。それまでは新人公演でも2番手、3番手(トップスターを1番手として次とその次にあたるポジション)の役すらやったことがなくて、脇役だったんですよ。でも上級生の男役の方々が卒業されて、いざ私が主役をいただくことになった時は何の準備もできてなくて、2番手と3番手のポジションのことも分からない状況でした。そこからスターの座というものを勉強しましたね。

 新人公演の主役をやった瞬間、照明さんや音響さん、オーケストラの皆さんがこんなにも支えてくださっていると肌身で感じました。皆さんが私のことも支えてくれていると思った時、自分もこれからスターさんを支えていきたいし、支えられる人間に値する存在にならなきゃなと思いました。

竹山:そこで局面はガラッと変わりましたか。

:その時は意識しました。でも、ずっときっちりしていたわけではなくて、紆余曲折はありましたね。しょっちゅう「辞めたい」と言っていましたし。どちらかというと、小劇場ではコメディ担当で、それがすごく楽しかったというのもありました。

 私は初舞台後に星組に配属されてからずっと星組にいました。それは今から思うとありがたいこと。当時は組替えを経験していた真琴(つばさ)と轟(悠)がすごく苦労していたのを見て、私はそこまで根性ないなと思っていました。

竹山:芸事に集中しなくてはならない中で自分をそこに溶け込ませていくと、いろいろな化学反応が起きる時があります。

:ポジションとして安泰だったとしても、年齢的なこともあって「本当にこのままでいいのかな」って。ずっとここにいる自分っていうのがあまりイメージできずにいたんです。でも宝塚でやることに関して、頑張っている仲間と、支えてくださるファンの方々は裏切りたくない。そんな二面性の自分がいたような気がします。

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