カルチャー
三遊亭円楽さん 「命を削るほど尽力していた」 「笑点」の制作スタッフが語る知られざる素顔
公開日: / 更新日:
プロレスやファッション、ゲートボール…多くの趣味に生きた人生
――円楽さんは非常に多趣味な方だったようですね。
そうなんですよ。円楽さんはプロレスが大好きで、その世界の人脈も広かった。全日本プロレス後楽園ホール大会の年間シートを買っていた時期がありましたから、僕も連れていってもらったことがあります。
――他にも驚くべき趣味や特技はありましたか?
円楽さんって、全身をイタリアの高級ブランド「ドルチェ&ガッバーナ」でビシッとキメるくらい、ものすごくおしゃれな人だったんですよ。特有のファッションセンスがありました。落語家って私服が地味な人が多いんですけど、彼だけは違う。私服にも“お金をかける人”でしたから、おしゃれも趣味だったんでしょうね。
――円楽さんはゲートボールで40年以上ものキャリアの持ち主なのだとか。
1980年代中頃から渋温泉(長野県下高井郡山ノ内町)を盛り上げようと毎年、旅館組合と協同でゲートボール大会を開催していました。宮城県蔵王町や福島県会津若松市でも大会を開いていますね。
こうしたイベント開催から感じる円楽さんのすごさは、自分が何かしたい時に協力者がいつだってそばに現れることですよ。だから、ある意味では人を残したといえるかもしれません。財産や名前以上に、人を残すことの方がよっぽど難しい。円楽さんの死去を大きな損失だと感じているのは、落語界や番組だけではないはずです。
「笑点」でもプライベートでも、円楽さんは自分のやりたかったことをほとんどやったんじゃないでしょうか。ただ、落語家としては志半ばだったはず。先代の師匠の死を契機に“自分色”の落語をできるようになって、これから噺家として完成する一歩手前でこの世を去ってしまった。これから5年、10年と現役でやっていけたはずの年齢なのに……。そうすれば落語家として、または落語界の仕掛け人として彼の地位はもっと上がっていったはずでした。本当に円楽さんの死が残念で仕方ないです。
1950年生まれ・東京都出身。本名・会泰通(あい・やすみち)。青山学院大学在学中に師匠の五代目 三遊亭圓楽の目に留まり、落語の世界へ。1977(昭和52)年に27歳の若さで「笑点」(日本テレビ系)の大喜利メンバーに抜擢され、“腹黒男”を全面に出した毒舌キャラクターは多くの視聴者から愛された。また、番組以外では落語界発展と落語家の交流を目指し「博多・天神落語まつり」「さっぽろ落語まつり」といったイベント開催にも尽力。プライベートではゲートボールをこよなく愛し、一門若手とチームを結成して日本各地で大会を開催するなど好評を博した。
(Hint-Pot編集部・山内 亮治)