仕事・人生
なぜ最も不利な野球を選んだのか? 元高校球児のパラやり投げ選手が歩むアスリート道
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両親は「やりたい」を全面サポート 可能性は好奇心から誕生
アンナ:野球とやり投げに取り組む上で悔しかったことや、その悔しさを乗り越えるきっかけになったことはありますか。
山崎:悔しかったことはしょっちゅうありました。小学生の時は、僕が打席に入ると外野手が前進守備をするんです。すごく悔しいから、その頭上を越す打球を飛ばせるように練習しました。こういう積み重ねのおかげで、高校でも野球ができたんだと思います。
アンナ:悔しいことを工夫して乗り越えようという姿勢がいいですね。
山崎:自然とそういう発想になっていましたが、母の影響は大きいと思います。例えば幼稚園でなわとびをする時、僕が「できない」と感じる前に、母はなわとびの持ち手をマジックテープで腕に固定するものを作ってくれました。太鼓の授業では、バチを固定するサポーターのようなものも。母がそういう発想だったので、僕も自然と工夫するようになり、「できないことをできないままにしない」という精神を養いました。
アンナ:ご両親の影響は大きいですね。
山崎:はい。両親は僕がやりたいことは全部、一切否定せずに挑戦させてくれました。「それは危ないよ」と言いたい時もあったとは思います。
アンナ:パラ選手や他分野で活躍なさっている障害のある方は共通して、ご家族が否定せずに前を向かせてくださいますね。親はどうしても心配で不安になってしまうけれど、子どもがやりたいことを全力で応援する。私もそうありたいと思います。
山崎:日本は子どもが挑戦する前に「危ないからやめましょう」と、まずリスクを考える傾向にあると思います。でも、子どもは失敗を恐れないし、可能性は好奇心から生まれるもの。よくジャングルジムに登ったけど降りられずに泣く子がいますが、僕はそういう姿を素晴らしいと思います。好奇心を失わず何事にもチャレンジすることが大事。ご家族にはその好奇心を後押ししていただきたいと思い、講演活動をしながら自分の経験談をお伝えしています。
アンナ:とりあえずやってみると、何ができて何が危ないのか、子どもたちも学べるのかもしれません。その中で諦めない精神が自然と身につくんでしょうね。
山崎:そうですね。試合前にシートノックをしていると、相手チームから「あ、手がない」と指を差されることがよくありました。最初は恥ずかしかったんですが、中学生になると障害が一つのアドバンテージに思えて、他の誰にもできない自分だけのプレーを作り上げることに誇りを持つようになりました。むしろ「よし、見てみろ」と見せたい欲すら出てきましたね(笑)。
アンナ:そう思えるようになったのは、何かきっかけがあったのですか。
山崎:少しずついろいろなことができるようになって自信がつき、自然とそういう感覚になりました。
アンナ:例えばホームランが打てたり、努力した結果が感じられるようになったりしたので、自分に誇りが持てるようになったと。
山崎:はい。成功体験を重ねると自信がつきますし、僕は普通にプレーしているつもりでも周りから見ると普通以上に見えるようで、大きな拍手をもらえたうれしさが自信につながりました。僕がサッカーでシュートを打った時と、野球でゴロをアウトにした時の歓声は明らかに違う。自分にとってはハンデが大きい方が面白い。そこに喜びを感じてしまいました(笑)。
アンナ:どうやったらこういう子に育つのか……(笑)。
<中編に続く>
1995年生まれ、埼玉県出身。先天性右手関節部欠損で右手首から先がない障害を持つ。小学3年生から野球を始め、中学校では二塁レギュラー、山村国際高校では硬式野球部で投手。高校3年生の夏、県予選3回戦で代打として逆転打を放ち勝利に貢献した。引退後は障害者野球に転向し、東京国際大学1年時に日本代表として世界大会で準優勝。その後、パラリンピック出場を目指してパラやり投げに転向。東京パラリンピックではF46クラスで7位に入賞した。現在は順天堂大学の職員。
(Hint-Pot編集部・佐藤 直子)