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仕事・人生

「お山のような人になりたい」 日本でも屈指の難ルート・妙義山縦走を果たした女性山伏の夢

公開日:  /  更新日:

著者:浅倉 彩

「もう無理かも」と思った瞬間も

――得度した奈良・吉野から群馬・妙義へ。何があったのでしょうか?

 妙義のお山に“呼んでもらった”と思っています。修験道は、明治時代初期の廃仏毀釈(明治時代に起きた、仏教を廃する運動)の動乱のなか、修験宗禁止令が出され、多くの修験寺院が破壊、もしくは神社化したうえに仏像や経典も失われ、途絶えてしまったところが多くて……。妙義もそのひとつです。

 現在、私は「半僧半俗」の立場で、半分は「地域おこし協力隊」として妙義ビジターセンターで仕事をしながら、もう半分はお山で修行をさせていただいています。得度したときは、ずっと吉野にいるつもりでした。

 それが、2年前に妙義山と出合い、「山伏がいなくなってしまった霊山、妙義山」のことがどうもずっと気にかかり、「私ひとりだけでも毎日手を合わせてあげられたら、妙義のお山もうれしいだろうか。でも仕事がないし、家もないし……」と悲しい気持ちになっていたんです。

 すると、ひょんなことから「仕事もあるよ、家もあるよ。KAM INNも次の女将が決まりそうだよ」ってとんとん拍子に話が進みました。「これは妙義山が呼んでくれたに違いない」と感じ、山伏がひとりもいなくなってしまったお山、妙義への移住を決めました。

妙義山。切り立った岩肌が修行の厳しさを思わせる【写真提供:片山文恵】
妙義山。切り立った岩肌が修行の厳しさを思わせる【写真提供:片山文恵】

――妙義山で、修験道は復活しそうですか?

 歴史的な資料は、徹底的に燃やされたのかまったく残っていないし、石造物などの修験の遺物を探しても、ほとんど何も見つからない。それに妙義山自体も非常に危険なお山で、登山レベルで言えば上級者向けのお山。しっかり入るには登攀(とうはん)装備が必須で、懸垂下降やロープワークなどの登山技術を身につけなければなりませんでした。そうこうしているうちに、気がつけば1年が経っていました。

 妙義山は、標高1000メートル程度しかないんですが、お山全体が切り立った山岳事故の非常に多い岩山です。普通はヘルメットをかぶりハーネスをつけ、何十メートルもあるザイルを背負い、ハイカットのしっかりした登山靴を履いて登る厳しいお山です。

 そんななかで地下足袋に山伏装束、ホラガイを持って登る姿は滑稽に映ったのでしょう。茶化されたり、叱られたり、変な宗教者として扱われたりすることもありました。もちろんお山で一緒に手を合わせてくれる人もいなくて、難易度の高いルートに連れていってくれる人もいなくて。

 それでも、まずは知ってもらうことから、見てもらうことからと、可能な限り入れるところまでお山に入り、お山に入るときはどれだけ暑くても装束を着て、拝所では錫杖を振りながら大きな声で読経し、ホラガイを吹き、お山に手を合わせました。本当に孤独でした。

 そんな孤独な環境で「もう無理かも」と思い始めた頃、奈良から登山経験豊富な兄弟弟子が来てくれて、初めて1日9時間以上かけて、雨の妙義山を2日間縦走しました。道中ずっと、「少しでも気を抜いたら死ぬな、試しの雨だな」と思いながら歩きました。

 地下足袋を履いた足の裏は濡れるとすぐマメができます。おそらくマメだらけになっているであろう、雨でふやけて痛む足をなんとか前に出しながら下山して、「あー無事に降ろしてもらった」と合掌して妙義山を見上げたとき、それまで毎日見ていたはずの妙義山が、全然違うお山に見えたんです。8か月間、毎日見上げ、憧れ、手を合わせていた、目にしっかり焼きついているはずのお山が。

 歩いているときはまるで「気ぃ抜いたら死ぬぞ!」って言われているような厳しいお山だったのに、下山した途端に打って変わって「やっと入ってきてくれたな」って優しく微笑んでるおばあちゃんみたいになったんです。不思議でした。そのあとから、急に俗世でも肯定的な人との出会いが増えて。ああ、やっと妙義山に受け入れてもらえたんだなって思いました。

 ちなみに、初めての妙義山縦走後、帰宅して地下足袋を脱いだら、足の裏のマメ、一部はマメを通り越して血マメになってました。よく歩けたものだなと思います。