仕事・人生
パリの老舗カフェで前例を破った日本人 “外国人初”のギャルソンになるまでの道のり
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パリ店の総支配人との出会い
それでもカフェ・ド・フロールは日本で人気を呼び、次々に地方支店をオープンすることに。学生アルバイトながら、大阪と京都支店の立ち上げを手伝いに行ってくれと頼まれた山下さんは、就職活動が行き詰っていたことや夏休みだったこともあり、京都店へ行くことにしました。
「そのとき、京都店オープンの指導にやってきていた、パリ本店の総支配人・フランシスと知り合い、やはりパリでないと意味がない、と強く感じました」
このとき本場のギャルソンの仕事ぶりに直接触れ、山下さんは生涯の生業にしたいと決意します。そして、山下さんは総支配人のフランシスにパリ店で働きたいと打ち明けますが、あっけなく断られてしまいました。当時はフランス人、しかも白人しかギャルソンとしてカフェ・ド・フロールには立てなかったのです。
外国人や有色人種には不可能だと言われたことを覆して、カフェ・ド・フロールのギャルソンになると決めた山下さんは、ここから驚きの行動に出ます。
「フランス人に負けないフィジカルを作ろうとジムに通い、フランスの食事を食べ、ワインや水もフランス産しか口にせず、なんとかフランス人になろうとしました。振り返ると、意味があったとは思えないのですが(笑)、一生懸命だったんですね」
そうした生活を続けていると、いつの間にか店で自然とお客様からチップをいただけるように。そこで山下さんはまた、大胆な決断をします。パリのカフェのシステムを導入し、自分だけは完全歩合制を願い出たのです。山下さんは正社員になることよりも、フランスと同じように歩合給で働くギャルソンという立場にこだわりと誇りをもっていました。
腹をくくり何度も総支配人に連絡
しかし2001年、28歳のときに表参道のカフェ・ド・フロールが閉店になります。そこで、仲間が表参道でやっていた小さなカフェのプロジェクトに合流しました。目指していた目標が一緒だったのでいい店が作れると期待したものの、オーナーとうまくいかず、ほどなく解散することになりました。
「そこで、パリで勝負するしかないと腹をくくりました」
山下さんは、フランシスに何度も手紙を送り、パリ店で働きたいという熱い思いを伝えます。
「しかし返事はない。しびれをきらして営業時間が終わる深夜に電話したんです。つたないフランス語で、『手紙は届いていますか、仕事をさせてもらえませんか』と。先方も何度も連絡してくるので、困惑したのでしょうね。苦しまぎれに、経済的に余裕があるなら1年間ぐらい学生として来てみたら、と返事をいただいたのです。その言葉を信じて、語学学校に入学手続きをし、学生ビザを取得してパリに向かいました」
ギャルソンとしてカフェ・ド・フロールに立つため、さまざまなことを画策した山下さん。次回は、パリの生活が始まり、次第にギャルソンへの道が開いていった過程を紹介します。
(Miki D’Angelo Yamashita)

Miki D’Angelo Yamashita
コロンビア大学大学院国際政治学修士、パリ政治学院欧州政治学修士。新聞社にて、新聞記者、雑誌編集記者、書籍編集として勤務。外信部、ニューヨーク支局、パリ支局、文化部、書籍編集部、週刊誌にて、国際情勢、文化一般を取材執筆。