仕事・人生
世界的指揮者、小澤征爾のひと言が転機に 日本人男性がパリの老舗カフェで“外国人初”のギャルソンとして働けた理由
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念願の正規のギャルソンへ
そんななか、日本の『ENGINE(エンジン)』という雑誌で巻頭特集を組まれ、短期契約が終わったあとも「山下はいるか」という問い合わせが相次ぎました。その状況を見たオーナー夫妻の提案で、山下さんは学生ビザのまま週19時間半の制限内で復帰。体調不良で勤務が減っていた年配ギャルソン・ジョルジュの穴埋めとして、10月から語学学校と両立しながら働くことになります。
店からは突然「今日の夕方から入ってくれ」と呼び出される日々で、深夜2時まで働いて朝9時から授業という生活が続きました。出欠が学生ビザ更新に必要でしたが、事情を理解していた語学学校の教師の配慮もあり、なんとか続けることができました。
そうこうしているうちに、ある日、ジョルジュがロッカールームで、「おいぼれは、そろそろ引退する。だからもう少し我慢しろ」と山下さんに引退を宣言。20人のギャルソンの中から、一枠あくことになり、オーナー夫妻とフランシスから「就労ビザを申請しましょう」と伝えられました。正式にギャルソンとして山下さんを雇用することになったのです。
「以前から小澤征爾さんに、重大な局面を迎えるときは、一筆書くから連絡してくれ、と言われていたので、小澤征爾さんにお願いして手紙を書いていただき、就労ビザを取得することができました。今、この立場にいるのも小澤さんのおかげで、心から感謝しています」
引退したジョルジュは、「フロールの顔」ともいえる存在だっただけに、その後を継ぐ立場には大きな緊張感があったといいます。最初はオーダーミスをして、お客様から怒られたりすることもあったという山下さん。そういうお客さまも、そのあと自分の常連になってくれたそうです。
「良くも悪くも外国人は1人だけだったので、いやがおうでも覚えられるんです。デメリットもありましたが、アドバンテージになっていた部分も多々ありました。次第に常連さんの支持を得ることもできるようになっていきました」
夢を叶えてカフェ・ド・フロールに立つことができた山下さん。最終回は、衰退するパリのカフェ文化への思い、そして東京で新たなカフェを立ち上げる決断に至るまでを語っていただきます。
(Miki D’Angelo Yamashita)

Miki D’Angelo Yamashita
コロンビア大学大学院国際政治学修士、パリ政治学院欧州政治学修士。新聞社にて、新聞記者、雑誌編集記者、書籍編集として勤務。外信部、ニューヨーク支局、パリ支局、文化部、書籍編集部、週刊誌にて、国際情勢、文化一般を取材執筆。
