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仕事・人生

「私が親を守らなければ」 聴覚障害の親を持つCODA女性 幼い頃に傷ついた周囲の言葉

公開日:  /  更新日:

著者:古川 諭香

CODAとして生きてきた咲羅さん【写真提供:咲羅さん】
CODAとして生きてきた咲羅さん【写真提供:咲羅さん】

 聴覚障害の親を持つ、耳が聞こえる子どもはCODA(コーダ)と呼ばれます。幼い頃から親と社会をつなぐ役割を担うことも少なくなく、通訳や生活のサポートを担いながら育つケースもあります。咲羅さんも、そのひとりです。4~5歳頃から病院や銀行で親の通訳をし、「親を守らなければ」と強く思いながら過ごしてきました。葛藤はあったものの、両親を愛していたという咲羅さん。これまでどんな半生を送ってきたのでしょうか。お話を伺いました。

 ◇ ◇ ◇

言語習得を支えてくれた祖母の電話

 両親に聴覚障害があったため、咲羅さんの家庭では手話で会話をしていました。咲羅さんの言語習得を支えたのは祖母です。祖母は「電話を設置して、毎日話そう」と提案。毎日、電話をかけてくれ、学校での出来事や日常の話などを聞いてくれました。

「祖母と話す中で語彙が増えていき、日本語で話すことにも慣れていきました。祖母が電話をかけ続けてくれなければ、同年代の子たちより言語習得が遅れていたかもしれません。本当に感謝しています」

幼少期の頃【写真提供:咲羅さん】
幼少期の頃【写真提供:咲羅さん】

 咲羅さんが両親を助けるようになったのは、4~5歳頃からです。水が出しっぱなしになっている音や洗濯機の終了音、電話、インターホンの呼び出し音などを伝えることが、幼い咲羅さんの役割になっていきます。

「飲食店での注文や買い物、病院、銀行、役所などでは通訳をしていました。銀行や病院で呼ばれたときには、窓口まで案内していたんです」

 外出中も気が抜けませんでした。後ろから車や自転車が近づいてきたときにはいち早く気づいて危険を知らせ、歩道がない道では、自ら車道側を歩いて母親を守ろうとしていたそうです。

「当時は特別なことだとは思っておらず、私にとっては当たり前の日常でした」