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義足の球児は現在公務員 甲子園に導いた負けず嫌いの心に美馬アンナさん感動
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30年で変わった社会の認知度「障害に対して寛容になった気がします」
アンナ:放課後や休日は、他の子どもたち以上に練習や準備をしていたんですか。
曽我:はい。休みの日は、家の近くの広場で近所の友達と集まって、体育でバスケットボールをしていればバスケットボールを、サッカーをしていればサッカーをして、人に負けないように練習していました。
アンナ:子どもって自然とそういう気持ちが養われるんですね。私は母親の立場なので、お話を聞いていたら、なんかウルウルしてしまいました(笑)。曽我さんが自分でいろいろ学んだように、自分の子どもも親が教えなくてもいろいろ考えて学んでいってくれるといいなと思います。でも、そう思える人と思えない人がいるんでしょうね。
曽我:それはあると思います。僕はとにかく負けず嫌いだったので(笑)。
アンナ:負けず嫌いは、生まれ持った宝物だと思いますよ(笑)。
曽我:今でこそ障害について社会で考えたり、パラリンピックで注目を浴びたりしていますが、僕が小学校に入学した30年くらい前は、まだ障害に対する認知度はかなり低かったんです。
だから、僕が入学する時に母が学校に電話をして「息子は義足です。ただ日常生活には支障はありません」と伝えたら、当時の校長先生に「そういう子は養護学校に行ってください」と言われたと、母がものすごく泣いていたことを覚えています。まだそういう時代だったんですよね。
アンナ:お母さん、それはつらいですね。
曽我:今はかなり認知度が高くなり、当時に比べて社会が障害に対して寛容になった気がします。僕は今、市役所に勤めていて、2年前まで教育委員会で学校の施設整備に関する仕事をしていました。だいたい毎年9月になると次の年に入学してくる子どもに関して、学校から「こういう子どもが入学してくるから、教室にこういう設備を作ってほしい」という要望が届くんです。
そういうのを見ると、今では比較的重い障害を持った子どもでも地域の公立学校に通えたり、その子を迎え入れる設備を整えるための予算を行政が認めてくれたり、環境はだいぶ変わったと思います。もちろん、市町村によって対応は異なると思いますが、僕が義足というだけで養護学校に行くように言われた当時と比べて、かなり進んできたと思います。
アンナ:私の息子も保育園に行くようになりましたが、やっぱり最初は電話をして受け入れてくれるかどうかを確認しました。スイミングや体操にも通っていますが、同じように快く受け入れてくれる教室を選んでいます。
ただ、今のところ、断られることはほとんどありませんね。それはやっぱり、先輩である曽我さんたちの頑張りがあったから。私の息子のように今の時代に生まれた子、これから生まれてくる子が過ごしやすくなっているのは、皆さんが培ってきてくださったことがあるからです。ありがとうございます!
曽我:いやいや、僕は自分のことしか考えていなかったので(笑)。ただ、こうやって社会が変わることで、僕自身も過ごしやすくなりました。
<中編に続く>
1985年、愛媛県生まれ。5歳の時にミカンを運ぶトロッコの車輪に左足をはさまれ、足首から先を失う怪我を負い、義足を使い始める。小学3年生から軟式野球を始め、主に投手として活躍。強豪・愛媛県立今治西高等学校への進学後は投手兼内野手としてプレーしたが、2年秋から三塁手に本格転向。3年生だった2003年夏に県予選で打率.571と打線を牽引し、全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)に出場した。好守も高く評価されたが、チームは惜しくも2回戦敗退。卒業後は龍谷大学に進学し、現在は滋賀県の大津市役所に勤務。
(Hint-Pot編集部・佐藤 直子)