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東京・浅草はなぜ魅力的なのか? ひばり映画や『浅草キッド』に刻まれたその姿とは
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三が日が終わり、お正月ムードも一段落。でも、せっかくのお正月気分、そう簡単に終わってほしくないものですね。そこでおすすめのスポットは、かつて「お正月といえば」の代名詞的存在だった東京・浅草(台東区)です。近年は人気漫画「鬼滅の刃」やネットフリックス映画『浅草キッド』の舞台になり、新たな注目を集めています。そんな“ちょっと気になる浅草”を、新旧の映像作品から覗いてみましょう。今週末は去りゆくお正月ムードを偲んで、浅草散歩も楽しそうですね。映画ジャーナリストの関口裕子さんによるナビゲートでお届けします。
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浅草寺の始まりは? まずは浅草の歴史から
浅草のシンボル的存在の一つに、大阪府大阪市の四天王寺(593年)、奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺(607年)に次いで古いといわれる浅草寺(せんそうじ)がある。檜前浜成(ひのくまのはまなり)、檜前竹成(ひのくまのたけなり)兄弟の網にかかった観音像を、彼らが仕える飛鳥の官吏だった土師真中知(はじのまつち)とともに安置したのが始まりだという。
浅草寺の隣にある浅草(あさくさ)神社は、この檜前浜成、竹成兄弟と土師真中知を祀る神社。5月の第3土曜日に行われる三社祭とは、神になった3人を奉じ、五穀豊穣や悪病払いの願いを込めた祭礼だ。
では、なぜそんな浅草の地が随一の歓楽街となったのか? それは元々、浅草寺が現世利益を謳い、庶民に寄り添う活動をしてきた寺で、人を惹きつける新しい遊興を認め、境内での活動を認めてきたことが挙げられるだろう。
江戸後期以降、浅草で最も繁華な場所になった浅草寺奥山は、元は火除け地だった。享保18(1716)年、浅草寺の西側の観音堂裏手の藪地を切り拓いて造成し、千本桜を寄進して、繁華な街を作ったのは新吉原の遊郭だという。桜が育った暁には、ちょうちんに花魁の名を入れて見世の繁栄を祈念したそうだが、その効果は絶大だったといわれている。
また「天保の改革」(1841~1843)により、中村座と市村座、河原崎座の三軒が浅草の外れにあった小出信濃守の下屋敷跡に移転させられたことも、結果的には浅草へ人を呼ぶことに貢献する。同地区は江戸歌舞伎の創始者、猿若勘三郎の名にちなんで猿若町(現在の浅草6丁目内)と呼ばれるようになり、役者や戯作者、芝居茶屋や道具を作る職人たちまで引き寄せ、一大芝居街へと発展した。
明治になり、浅草寺および奥山は近代化を図る政府によって公園に指定された。第一区から六区までの行政区分名を与えられ、猥雑な景観となる見世物小屋や興行、店舗は禁止。一時的に閑散となった。再び浅草を活気づかせたのは興行主たちだ。劇場や映画館などを設立してにぎわいを呼び戻し、お仕着せの呼び名だった「六区」に生命を与えた。
そんな場所だからこそ、ここで生まれた流行や行われた興行、そしてこの街自身の盛衰はどれもドラマチックなのかもしれない。