新たなアニータ俳優が理解した“伝える役目”

　しかし、それ以上にモレノが栄誉だと思っているのが、2月11日に日本公開されたスティーブン・スピルバーグ監督『ウエスト・サイド・ストーリー』への参加だ。

　彼女は1961年版『ウエスト・サイド物語』には登場しないバレンティーナという役を演じている。バレンティーナは、ヨーロッパ系のジェッツが溜まり場にしているドラッグストアの店主ドクと結婚し、伴侶に先立たれた今も母親のように彼らの面倒を見るプエルトリカンの女性だ。

　バレンティーナは緊迫感を帯びた2つのグループの若者が顔を合わす店の主として、特別な役割を担う。ドクの店で何が起きるかは『ウエスト・サイド物語』を観ている方であればすでにご存じだろう。いきり立つジェッツの青年たちにアニータが襲われそうになるあのシーンだ。バレンティーナの店に住み込むトニー（アンセル・エルゴート）に、マリア（レイチェル・ゼグラー）の状況を伝えに来ただけにもかかわらず。

『ウエスト・サイド・ストーリー』でアニータを演じるのは、アリアナ・デボーズ。ブロードウェイで話題のミュージカル「ハミルトン」のオリジナルメンバーとして、歌と演技で高い評価を受ける新進気鋭の俳優だ。

　母親は白人だが、父親はプエルトリカン。でも父親と一緒に住んだ記憶はほとんどなく、ノースカロライナ州で生まれたためスペイン語も話せない。アイデンティティを確立できずにいた上、オープンリーのクィア（LGBTQ）であるデボーズは、「自分にこの仕事は向かない」と思い、当初オーディションにもしぶしぶ行ったのだという。

　だが、トニー・クシュナーの脚本を読んで考えが変わった。アニータは女性の強いられるさまざまな困難や、信条や野望を追求することの大変さに何度もぶつかり、自分の言葉を持ち、状況を変える力がある。彼女には、困難を乗り越え、新たなる場所でも前に進み続けることの大切さを伝える役目があると理解したからだ。

「あなた自身のアニータを演じるように」と告げた監督とモレノ

　そんなデボーズを、モレノは何かを押し付けることのないように心がけ、安心して役に臨めるよう良いホステスであろうと努力したという。デボーズは、モレノとスピルバーグ監督どちらからも「あなた自身のアニータを演じるように」と言われたそうだ。

　バレンティーナの店に行ったアニータがジェッツに襲われるシーンは、最も神経を使った撮影となった。このシーンをかつて演じたモレノは、「私はあのシーンで大泣きし、涙が止まらなくなって撮影を中止にしました。アニータはあそこで体だけでなく心にも深い傷を負います。そしてその心の傷はなかなか消えませんでした」と語っている。

　そういったセンシティブな撮影をする際、現在はインティマシー・コーディネーターというスタッフが付き添う。性的描写を演じる俳優たちをそれぞれ配慮し、事前に合意事項を定める役職だ。日本ではまだまだ少ないが、事例は増えている。この存在がいるだけで撮影に臨む俳優の気持ちはだいぶ安定するという。

　デボーズも「すでに長く撮影をしてきて、お互いにリスペクトがあった上、そこにいるのはアリアナではなく、アニータ。不安は薄れてはいましたが、インティマシー・コーディネーターが全員の境界線を作ってくれたおかげで、演技として取り組むことができました。それでもあの感覚は拭い去れず、私は今も直に観ることはできませんが」と言っている。